元史卷一百九十二 列傳第七十九 楊景行

楊景行(字賢可)

  • 楊景行は字を賢可、吉安太和州の人。延祐2年(1315年)進士第に登り、贛州路会昌州判官を授かった。会昌の民は元来井戸を知らず河水を汲んでいたので疾病が多く、瓦を知らず茅で屋根を葺いていたので火災が多かった。景行は民に井戸を掘らせ、瓦で茅を代えることを教え、民は疾病・火災を免れた。豪民10人が「十虎」と号して政を干し民を害していたが、悉く捕らえて法に処した。学舎を創り師儒を礼して民に肥沃な田を割いて士を養わせ、絃誦の声が盛んになった。永新州判官に転じ、郡府の命を奉じて民田の租を調べ、宿弊と奸欺を除いて細民は恩恵を受けた。
  • 江西行省照磨に改まり撫州路宜黄県尹に転じ、決着していなかった冤獄数十件を審理した。撫州路総管府推官に陞り奸を摘発し郡に冤獄はなかった。金渓県の民陶甲は財を蓄え凶険で、しばしば県の長吏を誣陥して罷免させていたので官吏はその人を畏れて詰問できず、陶は一郡に横行していた。景行は法をもって痛烈に処断し500里外に追放した。金渓の豪僧雲住が人の墓を暴いて財物を奪った事件が発覚したが、官吏は賄賂を受けその獄を緩めていた。景行は急いでこれを取り調べ、僧は賄賂で動かなかったので危険な言葉で脅したが動じず、ついに法の通りに処断した。これにより豪猾は姿を消し良民は安んじた。
  • 湖州路帰安県尹に転じ、行省の命を奉じ荒田の租を整理し民は欺かれることがなかった。景行が歴任した州県はみな恵政があり、去った先々の民はみな石碑を立ててこれを頌えた。翰林待制・朝列大夫をもって致仕、享年74で没した。