偽鈔一味の摘発まで
- 林興祖は字を宗起、福州羅源の人。至治2年(1322年)進士第に登り、承事郎・同知黄巖州事を授かる。3遷して鉛山州知事となった。鉛山はもともと偽鈔の造作が多く、豪民の呉友文がその首魁で、遠く江淮・燕薊まで行使された。友文は奸黠悍鷙で偽造により富み、悪少40、50人を有司に分遣して告発しようとする者を先手を打って殺害し、前後多くの人を殺し、人の妻女11人を奪って妾とした。民はその害を被り冤罪を訴えられずに10余年を経た。
- 興祖は着任すると「この害を除かなければどうして民を牧することができようか」と言い、榜を張って偽造を禁じ賞を立て民に告発させた。ある者が告発したが偽りとして退け、また別の者が2人の偽造者とその贓物を告発すると取り調べて自白させたが、友文は自ら官に至って営救を求めた。興祖は命じて友文を捕らえさせ、たちまち百余人が友文を訴え出た。重罪の1、2件を取り調べて確定させ、その一党200余人を逮捕して法に処し、民の害はついに除かれ、政声は大いに高まった。江浙行省丞相の伯勒齊爾布哈(ベルケブカ)が朝廷に推薦した。
道州の守戦
- 南陽知府に陞り建徳路同知に改まったがいずれも赴任前に、至正8年(1348年)特旨で道州路総管に遷った。任地の城外に至ると獞(トン)賊がすでに背後に迫っていた。時に湖南副使の哈喇特穆爾(ハラテムル)は城外に兵を屯していたが、賊の来襲を聞き軍需の不足を理由に退兵しようとした。興祖はこれを聞き即夜に説得して留めた。哈喇特穆爾は「明日鈔5千錠・桐盾500を得られれば賊を破れる」と言い、興祖はこれを約した。翌日城に入って着任し、恩信をもって塩商を諭して鈔5千錠を借り、また郡の楼閣の古い桐板を取って盾とし、正午には備え終えた。哈喇特穆爾は鈔と盾を得て大いに喜び、防御に留まることにした。賊は新総管の到来を聞き、1日で盾500を用意して大軍が来ると見せ、その日の夕方に逃げ去った。
- 永明県の洞猺がしばしば蜂起し民の害となっていたが、興祖が手榜で諭すと皆「林総管は廉にして民を愛す、犯すべきでない」と言い、3年間境内に入らなかった。春旱に虫が麦苗を食ったので興祖は文を作って祈ると3日大雨が降り虫は死に麦は稔った。まもなく興作をやめ貧乏な者を賑わせ、徭役を軽くし租税を薄くし、郡中は大いに治まった。憲司の考課で道州は最上とされ、老齢により致仕して家で没した。