元史卷一百九十一 列傳第七十八 田滋

田滋(字栄甫)

  • 田滋は字を栄甫、開封の人。至元2年(1265年)汴梁路総管府知事より御史台掾に入る。12年(1275年)監察御史を拝命。13年(1276年)宋平定、滋は「江南新附の民情はまだ安定せず、加えて官吏の侵漁がある、行御史台を立てて鎮めるべき」と建言、詔はこれに従い、行御史台侍御史に抜擢された。両淮塩運使・河南路総管を歴任。大徳2年(1298年)浙西廉訪使に遷る。県尹の張彧が贓罪を誣告され獄が成立しかけたが、滋がこれを審理したところ彧は俯いて泣くばかりで何も語らなかった。滋は疑いを持ち、翌日斎沐して城隍司に詣で「張彧は事にあたり冤罪の状がある、神よ私を助け彧の誣告を明らかにしてほしい」と祈った。廟の道士が「かつて王成ら5人が誓状を持って祠に来て焼いて祈ったが、火が尽きないうちに去り、灰の中にその遺稿が残っていて今は壁の間に隠してある、それではないか」と進言した。見ると果たしてそうであった。翌日憲司に詣で成らを詰問すると服さず、火中から得た誓状を示すとみな驚愕して罪に服した。張彧は釈放された。
  • 大徳10年(1306年か)済南路総管に改まり、まもなく陝西行省参知政事を拝命。時に陝西は3年間雨が降らず、西嶽を通りかかった際「滋は命を奉じて参省事に来たが、安西で3年雨が降らず民は飢えて死んでいる、滋はどこへ帰ればよいのか、願わくば神よ甘露を降らせ黎庶を福せよ」と祈った。任地に着くと果たして大雨が降り、滋はすぐに倉を開いて麦5千余石を種の無い小民に給し、翌年の収穫で官に償わせた。民は大いに喜んだ。まもなく病で在職のまま没し、通奉大夫・河南行省参知政事を追贈、開封郡公に追封、諡は荘粛。