出自と中台掾まで
- 卜天璋は字を君璋、洛陽の人。父の世昌は金に仕え河南孔目官となった。憲宗の南征に際し衆を率いて帰順し、鎮撫・統民兵2千戸を授かり、真定路管民万戸に陞った。憲宗6年(1256年)、河北から河南に移った民3千余人を戸籍に付け専管させ、汴に家を構えた。天璋は幼くして聡悟、成長すると直気を負い、読書と史書を読んで成敗の大体を識った。至元中、南京府史となる。時に河北の飢民数万人が河上に集まり南に渡ろうとしたが、詔で民に生業に戻り渡るなと命じたため衆は激昂して戻ろうとしなかった。天璋は変事を恐れ、総管の張国宝に渡らせるよう勧め、国宝はこれに従い無事に済んだ。
- 河南按察副使の程思廉はその賢を察し憲史に招いた。声望はますます高まり、後に中台掾となった。侍御史で権勢を頼んで貪財する者があり、御史がその贓を摘発したが、天璋は文書を主管していたのに間に合わず、かえって讒言され共に内廷に拘留された。御史は食事の前で悲しんで泣いた。天璋が理由を尋ねると御史は「私は老いて娘一人だけ、心配でならない、私が繋がれて食べていないと聞いて数日泣いているのだ」と言った。天璋は「死は職の義である、どうして児女子のことで泣くのか」と言うと、御史は恥じて謝った。まもなく無罪となった。
- 丞相の順徳王が国事を執っていた時、掾から中書の提控に抜擢され、事の可否を必ず力を尽くして弁じたので他の相が怒っても天璋は自説を曲げず、王はついにその議に従い「掾がこのようであれば私はもう何を憂えようか」と言った。
工部主事から刑部郎中
- 大徳4年(1300年)工部主事となる。蔚州の劉帥という者が民産を豪奪し、吏が処断できずにいたが、省が檄を送り天璋に問わせたところ、帥は服し田は民に帰った。大徳5年(1301年)、枢密大臣の安巴(アンバ)の推薦により都事となり、その府を助け引見して錦衣・鞍轡・弓刀を賜った。後に扈従の労により奉訓大夫に加えられ侍燕服2襲を賜った。任期満了で枢密の臣が代えるべきところを留任を奏し、特にその代わりに増員した。武宗の時、宗正府郎中に遷り、尚書省が立つと刑部郎中に遷った。折しも盗賊が横行し、議して犯人とその家属を皆青衣巾を着させ民と区別しようとしたが、天璋は「赭衣が路を塞いだのは秦の弊であった、それでも法とするに足りるか」と言い、相は悟りこれを止めた。
- 諸侯王の謀反を告げる者があり、勅命で天璋がこれを糾すと、その賞賜は優渥であった。尚書省の臣が罪を得ると、仁宗は天璋を召し入見させた。時に興聖太后が座におり、帝は指して「これが不貪賄の卜天璋である」と言い、今の官を問うと、天璋は「臣は刑部郎中として罪を待っております」と答えた。誰が推薦したのかと重ねて問われると「臣は不才ながら誤って抜擢されました」と答えた。帝は「先朝は謝仲和を尚書としたが卿を郎中としたのはみな朕自ら薦めたのだ、汝はよく職を奉じ怠るなかれ」と言い、そのまま中書刑部の印章を授けた。事に就いた後、入朝謁見し隆福宮で酒を賜り錦衣3襲を賜った。後に反獄の取り調べを命じられ、帝は左右を顧みて「天璋は廉慎の人である、必ずその真情を得るであろう」と言い、天璋は命を奉じ獄に冤罪はなかった。
帰徳知府から広東廉訪使
- 皇慶初(1312年)、天璋は帰徳知府となり、農を勧め学を興し河渠を修復し河患は止んだ。時に群盗が要津に拠り商旅が通じなかったが、天璋は百数人を捕らえ晒し首にして盗を止めた。浙西道廉訪副使に陞り、在任1ヶ月で更田制により饒州路総管に改まった。天璋が至ると民に自ら実情を申告させ苛擾なく、民は大いに喜び版籍は清められた。時に省臣が田の事を管掌し妄りに威福をなし、郡県は争って賂を贈り譴責を免れようとしたが、饒だけは行わなかった。省臣はこれを恨み危法をもって罪を求めたが得られなかった。県が飢饉を告げると天璋はすぐに倉を開いて賑わせようとしたが、僚佐は不可と言った。天璋は「民が飢えているのはこのようなもので、必ず上奏の許可を待ってから賑わせれば民は死んでしまう。上奏を怠った責は私一人が負う、諸君に累を及ぼさない」と言い、ついに蔵を開いて賑わせ、民は全員助かった。
- 事に臨んで顧慮しないことはこのようであった。火が饒の東門に迫った時、天璋は衣冠を整え火に向かって拝すると勢いはやんだ。鳴山に虎が暴れたが天璋は山神に文書を移すと捕らえられた。治行第一と聞こえ広東廉訪使に陞る。かつて豪民が海に瀕して堰を築き商船を専有して利を得ていたが、歴代の政は賄賂を受けて問わずにいた。天璋が至ると兵卒を発してこれを取り壊した。嶺南の地は元来氷がなかったが、天璋が至ってから氷ができ、人は天璋の政化の致すところと言った。まもなく致仕を願い出た。
山南廉訪使と晩年
- 天暦2年(1329年)蜀の兵が起こり荊楚は大いに震え、再び山南廉訪使を拝命。人は「公は老いており必ず行けないだろう」と言ったが、天璋は「国歩がまさに艱しい今、私は80歳、常に死に場所を得られないことを恐れている、どうして難を避けようか」と言い、赴任した。至ると風紀を励まし吏治を清め、州郡は粛然となった。時に穀価が高騰していたが、穀価を下げないよう令を下すと舟車が争って集まり、米価はたちまち下がった。憲司の贓罰庫の緍銭を台に輸せず留めて飢えを賑わせるのに用い、御史が至ると民は道を遮り称頌した。詔で三品官に時政の得失を言わせると、20事を列挙し併せて1万余言、これを「中興済治策」と名付け、いずれも時弊に的中していた。これにより自ら退くことになり、汴に帰ると余った俸禄を族党に施し、家に甔(かめ)ほどの蓄えもなかったが、天璋はこれに安んじていた。
- 至順2年(1331年)没。通議大夫・礼部尚書・上軽車都尉・河南郡侯を追贈、諡は正献。