元史卷一百九十一 列傳第七十八 許楫

抜擢まで

  • 許楫は字を公度、太原忻州の人。幼くして元裕之(元好問)に学び、15歳で儒生として詞賦の選に中り、河東宣撫司は楫を賢良方正孝廉に挙げた。京師に至ると平章の王文統は中書省掾に任じたが、簿書に堪えないとして辞退し知印に改まった。丞相の安図と左丞の許衡はこれを深く重んじた。ある日、省臣に従い殿下に立ったとき、世祖はその美髯魁偉を見て「お前は秀才か」と問い、楫は頓首して「臣は秀才を学んでいるのみ、まだ自ら秀才と称する分際ではありません」と答えた。帝はその応対を善しとし、中書省架閣庫管勾兼承発司事を授けた。

勧農使から徽州総管まで

  • ほどなく大司農司が立てられると楫を勧農副使とした。時に商挺が安西王相であり、道で出会い会釈すると京兆の西の荒野数千頃について語った。宋・金いずれも屯田を置いたことがあり、募った民に屯田耕種させれば穀物を得て王府の需要に給することができると。挺はこの言を奏上し許され、3年で屯田が成り利益を得た。まもなく金符を帯び陝西道勧農使となった。
  • 至元13年(1276年)宋平定、帝は平章の㢘希憲(廉希憲)に荊南府で行中書を行わせ、楫を左右司員外郎とした。荊南の父老が金帛を持って謁見を求めたが、楫は「汝らはすでに大元の民である。今、吏を置いて汝らを撫でて字(そだ)てているのに、なぜ金帛を用いて謁見を求めるのか」と言った。
  • 翌年、嶺北湖南提刑按察副使に抜擢。武岡の富民に出征軍人を殴り殺した者があり、家財の半分を密かに自分の佃戸に与えて身代わりに自首させた。楫はその実情を審らかにして佃戸を釈放し富民を捕らえたので人はその明察に服した。江西道提刑按察副使に改まる。行省が招討の郭昻に叛賊の董旗を討たせたところ兵士が多くの民を掠奪していたが、楫は取り調べて良民600人を得て郷里に帰した。
  • 23年(1286年)中議大夫・徽州総管を授かる。僧格(サンガ)が尚書として天下の銭糧を会計し、参知政事の実都(シトゥ)が戸部尚書の王巨済に頼って刻剥し、吏を遣わして徽州の民の鈔を2千錠余分に取り立てさせた。巨済は少ないと怒りさらに千錠を増やそうとしたので、楫は巨済のもとへ行き「公は百姓を死なせたいのか生かしたいのか。死なせたいならば万錠でも取れよう」と言い、巨済は怒りを解き徽州は免れることができた。

柯三八・汪千十の招撫と晩年

  • 楫の任期満了後、徽州の績渓・歙県の民、柯三八・汪千十らが飢饉のため険しい地に拠って賊となった。行省右丞の嘉琿(ジャグン)が兵で捕えようとして7ヶ月対峙した後、人を遣わして諭させたところ、三八らは「許総管が来てくれるなら我らはみな降伏する」と言った。行省は駅を用いて楫を召し招撫に赴かせた。楫は単騎で賊の砦に赴くと、衆は楫の到来を見てみな拝し「我らの公が来てくださった、榜を署して我らに与えよ」と言った。楫は嘉琿に軍を一舎退かせ降伏を聞き入れるよう求めたが聞き入れられなかった。参政の高興が嘉琿に代わると楫は再び前言を告げ、興はその計に従い、賊は果たして降伏した。
  • 24年(1287年)太中大夫・東平総管を授かり、2年後致仕。享年70。11子(餘慶・重慶・崇慶。残りは名を失う)。