元史卷一百八十八 列𫝊第七十五 王英

軍歴

王英は字を邦傑といい、益都の人。剛果で大節あり膂力絶人で騎射に優れた。父の職を襲い莒州翼千戸となり、父子ともに双刀を得意としたため「刀王」と号された。至元二十九年(1292年)江西行枢密院の命で南雄の賊丘太老を討ち、渠帥劉把東を殺し九十余人を捕らえた。元貞元年(1295年)左丞董士選に従い大山の賊劉貴を捕らえ、二年(1296年)永新・安福二州の賊を討ち平定した。延祐二年(1315年)寧都の賊起の際は諸万戸軍を率い転戦し、斬獲は数えきれないほどであった。行省平章李世安の命で江浙平章張閭の軍を閩境で迎え、木麻坑で賊蔡五九を捕らえ、上虎嶂の賊三千余人を殲滅した。

晩年と最期

至治元年(1321年)忠武校尉益都淄萊万戸府副千戸、天暦元年(1328年)宣武将軍、至順二年(1331年)桂陽州の賊張思進ら二千人を招捕し降伏させた。元統元年(1333年)懐遠大将軍同知海北海南道宣慰使司事、至元三年(1337年)万安軍の呉汝期らの叛乱を平定した。李志甫が漳州で、劉虎仔が潮州で起った際、既に致仕していた英は江西行省右丞雅克特穆爾の討伐に平章政事巴咱爾に迎え出され、老いても義に応じて馳せ参じ功が最も大きかった。至正中、毛貴が益都を陥れた時、英は九十六歳であったが「異姓の粟を食んで生きながらえられようか」と子の弘に語り水漿を断って数日後に没した。毛貴はこれを聞き棺衾を具えて葬らせ、遺体を持ち上げようとしても動かず、香を焚いて「子の弘が公を先塋に帰葬したいと願っている」と祝すると遺体が起きたという逸話が伝わる。山東宣慰使布延布哈らが恤典を朝廷に請い「寇の粟を食まず芹泉で餓死した、伯夷叔斉の風があり、臣の清きものである」と称された(芹泉は谷の名で英の居所)。