元史卷一百八十八 列𫝊第七十五 劉哈喇布哈

経歴

劉哈喇布哈は先祖が江西の人。倜儻として義を好み古の侠士の風があり、燕趙に住み特黙斉の軍戸となった。至正十二年(1352年)潁亳の盗が起こり、台哈布哈が河南行省平章政事総兵として討伐に赴いた際、哈喇布哈は兵機・攻守方略に関する十事を上書し、台哈布哈に掾として辟され、まもなく左右司都事となった。膂力あり騎射に優れることから前八翼軍を統べる先鋒将に任じられ、号令を厳明にし賞罰を守り、敵情判断は的確であった。

彭子岡の伏兵と柳林の戦い

達実巴図爾の軍が長葛で潰えて中牟に屯した際、哈喇布哈は汴梁南の彭子岡に駐屯していたが、賊の再攻を予見して援軍に向かった。賊が洧川から渡河し達実巴図爾の営を襲おうとしているとの報を受けると、正面から急ぐより先回りして帰路を断つ方が確実と判断し、伏兵を配して賊の帰路を待った。果たして賊は達実巴図爾の営を大掠して引き返し、伏兵に四方から襲われ大敗、悉く捕らえられた。この功により哈喇布哈の名声は総兵官の達実巴図爾に並ぶほどとなった。十八年(1358年)山東の毛貴が河間から直沽に進み漷州を犯し棗林・柳林に迫って畿甸を脅かし、枢密副使の達国珍が戦死する事態となった。朝廷では乗輿の北巡や遷都が議論されたが、左丞相太平が独り反対を貫き、哈喇布哈は同知枢密院事として詔を奉じ柳林で大勝、毛貴の軍を潰走させ済南に追いやり、京師の安全を守った功が最も大きかった。後に河南行省平章政事に遷り、任地で没した。

倪晦との確執

哈喇布哈は信州人の倪晦(字孟晣)と共に台哈布哈の掾史であったが、晦は書史文墨に精通し深く任用され、哈喇布哈の意見はしばしば退けられ心中に不満を抱いた。台哈布哈が事に敗れ哈喇布哈を頼って助けを求めた際、哈喇布哈は保護しきれずかえって彼を縛って京師に送り死地に至らしめた。これを君子は非難した。