元史卷一百八十七 列傳第七十四 賈魯

出自と河防の建言

賈魯は字を友恒といい、河東高平の人。幼くして志節を負い、長じて謀略人に過ぐ。延祐・至治年間、二度明経で郷貢に領し、泰定初年(1324年)東平路儒学教授を恩授され、憲史に辟され、潞城県尹、丞相東曹掾を経て戸部主事に擬されたが、父の病を予感して帰郷し喪に服した。太医院都事となり、遼金宋三史修纂の際に宋史局官として選ばれ、書成後に燕南山東道奉使宣撫幕官として最高の考績を得た。中書省検校官として、十八の河倉が官糧百三十万石を失った弊害を指摘し、監察御史に拝され、御史の封事は直接聖聴に達すべきと主張した。台都事、山北亷訪副使を経て工部郎中として考工十九事を建言した。

治河の実現

至正四年(1344年)黄河が白茅堤・金堤で決壊し沿岸の民が被災した際、帝の命で魯は都水監として現地を数千里踏査し、北堤修築か疏塞併用による故道復旧かの二策を献上した。右司郎中として時政二十一事を建言し、都漕運使として漕事二十事を上奏、うち京畿和糴・漕司旧領漕戸の優恤など八事が採用された。九年(1349年)丞相トクトが再び治河を議した際、魯は治河を強く主張し、先の二策のうち後策(南河を疏し北河を塞ぎ故道を復す)が採用され、事を魯に委ねた。

治河の完成と晩年

十一年(1351年)四月、魯は工部尚書総治河防使として二品に進秩し、汴梁大名など十三路の民十五万、廬州等の戍軍十八翼二万を動員した。同月着工し、七月に河を開鑿、八月に決水を故河に流し、九月に舟楫が通じ、十一月に諸埽諸堤が完成して黄河は故道に復した。帝は使者を遣り河伯を祭らせ、魯を京師に召還、功により栄禄大夫集賢大学士を超拝され、欧陽玄に命じて河平碑を撰し功績を宣付史館、先臣三代を追贈した。中書左丞に拝されトクトに従い徐州を平定、続いて濠州の余党討伐を命じられ、伊徹察喇と共に督戦し「己午の刻までに城を落とす」と誓ったが、進撃中に頭眩を発し、薬を却けて陣中で没した。享年五十七、十三年(1353年)五月壬午の日であった。伊徹察喇が自ら喪を治め、柩を護って高平に還し、交鈔五百錠を賜り塟事に充てられた。子は禎。