元史卷一百八十七 列傳第七十四 逯魯曾
出自と諫言
逯魯曾は字を善止といい、脩武の人。剛介で経術に通じ、天暦二年(1329年)進士に及第、翰林国史院編修官、御史台掾を経て、監察御史が中丞の史顕夫の簡傲を弾劾した際、魯曾は大夫の前で公正に取りなし、直言の士として知られた。太常博士として、武宗の廟に后主が立てられていない問題を巡る廷議で、丞相巴延が明宗の母伊竒哩氏を配享すべしとし、徽政院は太后の意向として文宗の母唐古氏を主張したのに対し、魯曾は珍格皇后が既に武宗朝で正式に冊立されていることを根拠に「妾を正宮とするのは礼にあらず」と論じ、堯の母の故事を引いて陳顥の反論を退け、結局珍格皇后が配享された。
弾劾と至正の従軍
復た監察御史に拝され、塔斯哈雅昻吉爾・太尉衮布巴勒・右丞烏徳美・刑部尚書吉達布・監察御史哈喇諤勒哲伊嚕布哈・院使呂思誠らを弾劾し、いずれも巴延の党であった。枢密院都事として、巴延専権時代に大臣殺害に連坐して妻女まで籍没された弊害を指摘し、以後は罪を本人のみに止めるべきと建議し、剡王の冤罪も雪がせた。刑部員外郎として巴延の誣告による冤罪を悉く正し、宗正府郎中、遼陽行省左右司郎中、山北道粛政亷訪司僉事、礼部郎中を歴任した。至正十二年(1352年)丞相トクトが徐州の賊を討つにあたり、水戦に不慣れな官軍に代え瀕海の塩丁を募る策が採られ、魯曾は資善大夫淮南宣慰使領征討事に超遷され、塩丁五千を率い徐州平定に従軍、続いて淮東討伐を領し、軍中で没した。