元史卷一百八十七 列傳第七十四 烏克遜良楨

出自と初任

烏克遜良楨は字を幹卿といい、系譜は父の澤の伝に見える。資質は絶人で読書を好んだ。至治二年(1322年)蔭補で江陰州判官となり、服喪の後、婺州武義県尹に転じて恵政を敷き、漳州路推官に改めて疑獄を悉く平反した。「律に徒刑者は杖たずとあるが、今は杖したうえ徒刑にするのは恤刑の趣旨に反する」と上言し、これを令として定めた。泉州、延平判官を歴任し、陝西行台監察御史に拝され、遼陽行省左丞相の達実特穆爾を売国の罪で弾劾し、漢の高祖が丁公を斬った故事を引いて人臣の大義を示し、御史中丞の胡居祐の奸邪をも弾劾して両名を罷免した。

綱常論と諫言

都事に陞ったが言が用いられず解任され、再び監察御史に起用された。天暦以来紀綱が大いに乱れ元気が傷ついた現状を憂い、儒臣(許衡のような)を禁密に招くべきと連疏で諫めた。また国俗として父の死後に子が後母を娶り、兄弟の死後に妻を娶り継ぐ慣行や、父母の喪に服さない制度について、「綱常は天より出るもので変えられない」としつつ、議法の吏が「国人はこの限りでない」とするのは、名目上尊びながら実は漢人・南人より薄く遇していることになると論じ、礼官による議定を求めた。また隠士劉因を許衡と並べ孔子廟に従祀すべきと薦めたが、いずれも取り上げられなかった。御史台が新たに風紀を作興した際には、賢才の登用を綱とし、風俗を厚くし賦役を均し審理を重んじ冗官を汰し守令を選び奉使を出し公田を均すことを目に掲げて建議した。

累官と至正の危機

至正四年(1344年)刑部員外郎に召され、御史台都事、五年(1345年)中書左司都事、江東道粛政亷訪司副使を経て、六年(1346年)平江路総管を拝辞、八年(1348年)右司員外郎、九年(1349年)郎中、広東・福建道粛政亷訪使(中途で召還)を歴任し、参議中書省事兼経筵官となった。十一年(1351年)治書侍御史、中書参知政事同知経筵事に陞り、十三年(1353年)右丞兼大司農卿に陞った。軍餉が不足する中、右丞烏蘭哈達と共に屯田を主管し、歳入二十万石を実現した。東宮の建立が久しく実現しない中、詹事院設立に伴い副詹事となり、皇太子に正心誠意の説を進講した。当時盗賊が蜂起し、帝が根絶を命じた際、良楨は「賊平定の要は人心を収めることにあり、多殺は道ではない」と説き、赦して安んじさせた。

淮南の変乱と晩年

十四年(1354年)淮南行省左丞に遷り、泰州の張士誠が降伏後叛いて淮南行省参知政事趙璉を殺し高郵・六合を陥れた際、太師トクトの南征に従軍し六合を平定した。高郵をほぼ克服するところでトクトの兵柄が罷免され、参議の龔伯璲らがトクトに叛旗を勧めたとする上変事件に連座を疑われたが取り調べで無実と判明し、中書左丞に戻り彰徳に分省して軍食の調達にあたった。十六年(1356年)栄禄大夫に進み玉帯を賜り、十七年(1357年)大司農、翌年右丞兼大司農に陞ったが辞退を許されなかった。乱に陥った地域の連坐を巡り、悪少年が知宜興州の張復を通賊と誣告し中書がその妻子を籍没しようとした際、良楨は「手は断てても署名はできぬ」と拒み署名しなかった。福建・山東の食塩、浙東西の長生牛租、瀕海の被災囲田税を罷免し民に徳とされた。至正格の軽重不倫を論じ、律書を参酌重定する事業に着手したが完成前に罷免され、家居して子弟を訓じ晩年病を得て没した。自ら約斎と号し、詩文奏議若干巻を著した。