元史卷一百八十六 列傳第七十三 張翥
出自と学問
張翥は字を仲挙といい、晋寧の人。父は吏として江南征討に従軍した。翥は少い頃、才を恃み豪放不羈で蹴鞠や音楽を好み家業を顧みなかったが、ある日翻然と改心して読書に専念した。李存(字安仁、陸九淵の学を伝える大儒)に学び道徳性命の説を究め、また仇遠に詩を学びその音律の奥義を極め、詩文で名を知られるようになった。維揚に遊学して久しく門人が多く集まった。至元末年、同郡の傅巖起が朝廷に翥を隠逸として薦めた。
出仕と博羅特穆爾との対峙
至正初年(1341年)国子助教に召され上郡の生を分教したが退居淮東した。遼金宋三史修纂の際に翰林国史院編修官として起用され、史成後、応奉修撰・太常博士・礼儀院判官を歴任、翰林直学士・侍講学士から侍読兼祭酒となった。後進の指導に努め、経義の質問には衆説を折衷して論じた。中書に召され時政を集議した際、衆論が沸騰する中翥は独り黙していたため丞相吹斯戩に問われ、「諸人の議はいずれも正しいが、事の緩急先後は丞相の決するところ」と答え、丞相はこれを善しとし翌日集賢学士に除された。まもなく翰林学士承旨として致仕、栄禄大夫に進んだ。博羅特穆爾が京師に入った際、庫庫特穆爾の官爵剥奪と討伐の詔の起草を翥に命じたが、翥は毅然として「吾が腕は断てても筆は執れぬ」と拒み、天子もその意志を尊重して他の学士に命じた。博羅特穆爾はこれを知りつつも怨まなかった。博羅特穆爾誅殺後、詔により翥は河南行省平章政事に任じられつつ翰林学士承旨として致仕、終身全俸を給された。
人物と晩年
二十八年(1368年)三月、八十二歳で没した。詩、特に近体詩・長短句に優れ、文よりも詩に自負を持ち「私の文は既に自然と化している、構想を練るのではなくただ思うままに筆を任せるだけだ」と語った。翰林学士の実喇卜が文の推敲に苦しむのを見て「先生の文はまだ化していないのか」と笑い合った逸話も伝わる。平素諧謔を好み座を和ませたという。詩文は多かったが男子がなく国が亡んだため遺稿の多くは伝わらず、律詩楽府のみ三巻が伝わる。兵乱以来の死節死事の人々を集めた『忠義録』を編んだ。