元史卷一百八十六 列傳第七十三 成遵
出自と経歴
成遵は字を誼叔といい、南陽穣県の人。幼くして敏悟で読書は一日数千言を記憶し、十五歳で父を喪い貧しさの中で学問に励んだ。二十歳で文章に通じ、四書五経を師とし史漢韓柳を範として科挙の文を難なく作った。楊恵に文才を認められ、至順辛未(1331年)京師に至って夏鎮に春秋を学び国子生となり、助教の陳旅に才を評価され、虞集に「公輔の器」と称賛された。元統改元(1333年)進士に及第、将仕郎翰林国史院編修官として泰定・明宗・文宗三朝実録の修纂に参与した。
監察御史としての諫言
後至元四年(1338年)応奉翰林文字、五年御史台掾を経て至正改元(1341年)太常博士、中書検校を経て監察御史に拝され、上京に扈従し「天子は起居を慎み嗜慾を節すべし」と切に諫めて帝の称賛を得た。台察四事(越権の弾劾、御史の左遷による言路の閉塞、御史の保身、亷訪の調査不実)を挙げ、また法祖宗・節財用・抑奔競・明激勧の四事を上疏し、一年で七十余件を弾劾・挙劾したため執政に憎まれた。三年(1343年)陝西行省員外郎に出され、母の病で辞して帰り、五年丁母憂、八年(1348年)淮東粛政亷訪司僉事に擢用され、礼部郎中として山東淮北の守令の賢否を巡察し、循良の九人と貪懦の二十一人を明らかにした。
刑部と黄河治水
九年(1349年)刑部郎中、御史台都事を経て、贓吏が父母の喪を理由に免罪される慣例を廃する議に「悪人を憎むより人倫を重んじるべき」と反対し、戸部侍郎に陞った。十年(1350年)中書右司郎中として滞積した刑獄数百件を同僚と分担して裁決した。粟を輸して官を得た者が姦淫の罪を隠していた事案では、賣官と姦淫者への授官を厳しく咎めて勅を取り消させた。工部尚書に任じられ、黄河が白茅・鄆城・済寧で決壊した際、堤築造か南河故道の疏通かで議論が分かれ、漕運使賈魯は南河疏通・北河閉塞を主張、朝廷は決しかねて遵に大司農の図嚕と共に実地視察を命じた。遵は数千里を踏査し測量した上で故道復旧に八つの難点を挙げて反対したが、丞相トクトは既に賈魯の説を採っており、遵は「済寧曹鄆は連年飢饉、二十万人を集めれば河患より重い禍がある」と力説、トクトは「汝は民が反すると言うのか」と怒った。一昼夜論争しても入れられず、「腕は断てても議は易えられぬ」と言い切り、結局出されて大都河間等処都転運塩使となった。
地方官としての奮闘と冤死
汝寧の盗が汴境を侵し商船が途絶える中、状況に応じて処置し国課を集めた。十四年(1354年)武昌路総管に転じた。武昌は沔冦に残燬され疫病で人口の六七割を失い、大江上下は盗賊に阻まれ米価が高騰していたが、遵は軍儲鈔一万錠を借りて勇士を募り兵境を突破して太平・中興で糴粟を行い、民を救った。省臣出征中は遵一人で省事を摂り、斥候を遠く配し、民を兵に籍して五千余人を得、四門に万夫長を置いて防備を固め、城は無事であった。十五年(1355年)江南行台治書侍御史に擢られ参議中書省事に召され、河南の賊が黄河を渡って北上する事態を丞相に泣いて訴え、朝廷は守河将帥の罪を問い防禦を強化させた。湖広の倪賊が威順王の子を人質に降伏を求め湖広行省平章を望んだ際、遵は「叛逆の賊に宰相に次ぐ職を軽々しく与えられない」と項羽と劉邦の故事を引いて反対し、衆はこれに同意した。
治書侍御史、中書参知政事を経て十七年(1357年)中書左丞に陞り彰徳に分省した。丞相太平が皇太子に忤れて憎まれた際、遵と参知政事の趙中も太平の党とみなされ排除の対象とされ、十九年(1359年)鄧守禮の弟子鄧子初らに贓罪を誣告され、皇太子の命で御史台・大宗正府が鍜錬して獄を成し、遵と趙中・蕭用ら六人は皆杖死した。世人はこれを冤罪と憐れみ、二十四年(1364年)御史台がその誣告を明らかにし、宣勅を返還する詔が出された。