元史卷一百八十 列傳第六十七 孔思晦

出自と学徳

  • 孔思晦は字を明道といい、孔子54世の孫。資質端重で寡黙、幼少より学に励んだ。導江の張某に師事し義理を求め、家貧しく躬耕して学を続けた。大徳中(1297-1307年)祭酒耶律有尚に薦められたが母の老いを理由に辞し帰郷、母の病には躬ら薬を進め、喪に服し五日間水すら口にしなかった。
  • 至大中(1308-1311年)茂才に挙げられ范陽儒学教諭、延祐初年(1314年)寧陽学。倹約と教養の法で赴任先の校官の職を全うし、離任時には学者に惜しまれた。

衍聖公の襲封と孔氏宗族の整理

  • 孔氏族人は思晦こそ嫡長にして賢明であり衍聖公を襲封すべきと議論したが決着しなかった。仁宗が孔子の裔について問うた際、廷臣が明答できず、帝自ら孔氏譜牒を調べ「嫡により襲封すべきは思晦」と定めた。中議大夫・衍聖公を授けられ、月俸を百緡から五百緡に加え、四品印を賜った。
  • 泰定3年(1326年)山東廉訪副使王鵬南の建言により嘉議大夫に陞り、至順2年(1331年)三品印に改められた。
  • 廟の毀損を修復し、角楼・囲墻を復旧、金絲堂を新築し祭器・礼服を整えた。尼山の廟を復興し尼山書院を学官に列するよう請い許可された。三氏学の田三千畝が豪民に占められていた問題や、子思書院の営運銭の未払いも処理し復した。
  • 孔子の父の封号が「斉国公」に留まっていたことに対し「宣聖は王に封ぜられたのに父の爵は公のまま」と朝廷に訴え、聖父啓聖王・聖母王夫人の加封が実現した。

族裔の真偽と晩年

  • 五代の孔末の子孫が真の孔子後裔を滅ぼそうとした事件の後裔が、なお宣聖の後を自称していたことに対し、思晦は「早く弁明しなければ真偽が長く不明になる」として族人を集めて典故を調べ排斥し、宗譜を石に重刻して孔氏の系譜を明らかにした。
  • 元統元年(1333年)67歳で没した。没日、鶴の群れが屋上を舞い、神光が東南から落ちたという。諡は文粛。子の克堅が衍聖公を襲封し嘉議大夫、のち通奉大夫に進み、至正15年(1355年)同知太常礼儀院事、陝西行台侍御史、国子祭酒、山東粛政廉訪使を歴任(赴任せず)。孫の希学が衍聖公を襲封した。