元史卷一百八十一 列傳第六十八 元明善

出自と江西時代

  • 元明善は字を復初といい、大名清河の人。先祖は拓跋魏の裔で、清河に住み4代目にあたる。読書して過目輒記し、諸経に通じ特に『春秋』に深く、若くして文名を挙げた。
  • 浙東使者の推薦で安豐・建康両学正、行樞密院掾を経て、江西左丞董士選に厚遇された。贑州の賊劉貴の反乱討伐に従い、俘虜300人のうち133人を減刑し全活させた。将佐が皆殺しを主張したのに対し「王者の師は天罰を行うのみ、渠魁を戮すれば足る、民に何の罪があろうか」と争った。籍にあった贑吉の民丁10万を有司が利用しようとした際、籍を焼いて根絶やしにした。

仁宗朝の翻訳事業と地方賑済

  • 樞密院照磨、中書左曹掾を経て、江西時代の借金馬の一件で罷免されたが後に復官。仁宗が東宮にあったとき太子文学に抜擢され、即位後は翰林待制として成宗・順宗実録の修纂に関わり、翰林直学士に陞った。
  • 尚書の経文を節訳して政要を進める事業で、宋の忠臣の子・集賢直学士の文(範文虎系?)に潤色を任され、帝は「二帝三王の道は卿ならでは聞けぬ」と称えた。興聖太后の尊号奉呈に伴う恩赦の議に「頻繁な赦は善人の福にならぬ、過を宥すべき」と述べた。
  • 山東・河南の飢饉に対し詔なく鈔1万2000錠を分与し、「命に背く罪は辞さない」と述べた。武宗実録の修纂の後、翰林侍講学士に陞り、延祐2年(1315年)初の会試で考試官・読巻官を務め、多くの人材が名臣となった。

礼部尚書時代と晩年

  • 礼部尚書として孔氏宗法を正し、宣聖54世孫孔思晦の衍聖公襲封を上奏し許可を得た。参議中書省事、湖広行省参知政事、集賢侍読を経て、廟制を議し翰林学士として仁宗実録を修めた。
  • 英宗の親祼の礼で祝冊に御名を署すことを三度代行するほど信任された。至治2年(1322年)在職のまま没した。泰定間(1324-1328年)資善大夫・河南行省左丞を贈られ清河郡公を追封、諡は文敏。文集が世に行われた。
  • 江西・金陵時代、虞集と激論を交わした逸話が伝わる。元明善は虞集の経学が朱子の説にのみ拠ることを批判し、虞集は文辞は言いたいことを言い尽くせば足るとし、元明善は雷霆・鬼神の変化のごとき文を良しとした。二人は当初親しかったが後に折り合いが悪くなり、董士選が両者に和解の言葉を贈った逸話がある。子の晦は峡州路同知に蔭補されたが早逝した。