元史卷一百八十 列傳第六十七 趙世延

出自

  • 趙世延は字を子敬といい、先祖は永古特族で雲中北辺に住んだ。曾祖達衮は金の羣牧使で太祖のために馬を牧し、太祖のため死んだ。祖父阿勒楚爾は幼くして孤児となり、大父兆嘉により趙氏を名乗った。父赫色は蜀に鎮した父祖の職を継ぎ、成都に家した。
  • 世祖に召見され儒者の体用の学を修め、至元21年(1284年)雲南提刑按察司判官として烏䝉蛮の乱を討伐し降を受けた。至元26年(1289年)監察御史となり丞相僧格の不法を弾劾したが中丞趙国輔に握りつぶされ、弾劾に加わった5人のうち世延のみ免れた。

地方官と陝西・四川の功績

  • 江南湖北道粛政廉訪司事として儒学を興し義倉を立て淫祠を撤し、澧陽の壊堤を修め、良民の略売を禁じた。江南行御史台都事、中書左司都事などを歴任。安西路総管として壅滞する三千の訟牘を三月足らずで処決した。
  • 陝西の飢饉に際し倉廩の放出を主張し、朝廷が許可しない場合は自ら家財を投じてでも実行すると述べた。四川廉訪使として軍士の科差の弊を除き、都江堰を修復し民に便益を与えた。
  • 八百媳婦の反乱討伐に消極意見を述べ、無用な出兵を戒めた。皇慶2年(1313年)浙江行省参知政事、延祐元年(1314年)中書参知政事、御史中丞を歴任。延祐3年(1316年)権臣特們徳爾(テムデル)の罪十三条を弾劾し職を奪わせたが、自らも謗りを受けて中丞を解かれた。

冤罪と復権

  • 延祐5年(1318年)光禄大夫・昭文館学士・大都留守を経て四川行省平章政事となり、重慶路に屯田を興し年に粟1万1700石を得た。
  • 仁宗崩御後、特們徳爾が再び相位に就き復讐を図り、その党何志道が世延の従弟索約勒哈呼を誘って誣告させた。逮捕された世延は赦に遇ったが特們徳爾は追及を止めず、獄中で自裁を迫られたが屈しなかった。
  • 中書左丞相拜珠(バイジュ)が世延の無辜を訴え、出獄・養疾を得た。帝も特們徳爾の私怨と見抜いていた。特們徳爾の死後、世延は釈放され金陵に隠棲。泰定元年(1324年)召還され集賢大学士、江南行台御史中丞などを歴任し、後に中書は世延の冤罪を天下に布告して雪冤した。

文宗擁立の功と晩年

  • 翰林学士承旨・経筵事を兼ね、泰定帝崩御後、雅克特穆爾(エルテムル)らが武宗の子・周王と懐王のいずれを立てるか議した際、懐王を先に迎立すべきと定策に参画し、江陵から迎え文宗として即位させた功が大きかった。
  • 文宗即位後も御史中丞・翰林学士承旨を兼ねた。天暦2年(1329年)江南行台御史中丞、集賢大学士、奎章閣大学士、中書平章政事を歴任。至順元年(1330年)『皇朝経世大典』の纂修に参加、魯国公を封じられた。
  • 金陵の茅山で養疾しつつ致仕を重ね請い、凉国公に改封。至元改元後も奎章閣大学士・翰林学士承旨・中書平章政事・魯国公を歴任し、至元後の元年(1335年)成都で77歳で没した。至正2年(1342年)執法佐運翊亮功臣・太保・金紫光禄大夫・上柱国を贈られ魯国公を追封、諡は文忠。
  • 世延は九朝に仕え省台を50余年歴任し、忠義と清介を守り文学を飾りとした。子五人のうち三人が顕達し、天暦初年、末子の嚢嘉特(ナンギヤダイ)が蜀の反乱に殉じ、推忠秉義効節功臣・資善大夫・中書右丞・上護軍を贈られ蜀郡公を追封、諡は忠愍。