出自と清廉な吏歴
- 敬儼、字は威卿、河東の出で後に易水に徙る。幼くして学を好み、御史中丞郭良弼の推挙で殿中知班となった。海運万戸朱清・張瑄の賄賂を拒み、両人失脚後の連座を免れた清廉さで知られた。大徳2年(1298年)吏部主事・集賢司直。湖湘の変事の際、恤民と情勢視察の功で丞相哈喇哈斯達爾罕に称賛された。
御史台での糾弾
- 大徳7年(1303年)監察御史として省臣の不正癒着を弾劾。江浙行省と浙西憲司の対立を公平に裁定した。中書左司都事として賈人の運糧不正を追徴。武宗撫軍期の宰臣の異謀事件の鞫問にも携わった。武宗臨御時、湖広省の偽の警報事件を面詰して虚偽を暴いた。旱蝗の饑饉で盗を犯した民の減刑を主張し、多数の減死を実現させた。
両淮塩政と晩年
- 至大元年(1308年)尚書省設立に反対して忤旨し、両淮運転使に左遷されたが、場官の貪汚を弾劾して課額を二十五万引に増やす成果を上げた。仁宗践阼後、戸部尚書として尚書省弊政の改革に関与。浙東道廉訪使として石橋工事の詐欺を摘発し、大火の被災民を賑済して孔子廟を再建した。江西行省参知政事として省吏による訴訟斡旋の弊を正した。
- 延祐4年(1317年)以降、侍御史・太子副詹事を歴任、御史大夫托歓達爾罕に留任を奏請された。湖広省臣の贓罪を五たび上奏して正した。延祐5年(1318年)中書参知政事、帝は字で威卿と呼び厚遇した。院・寺監の冒濫な僚属任用を追奪させる令を著した。天暦改元(1328年)上京の朝臣を誅殺しようとする議に抗論して衆を救った。晩年は痺により歩行不能となりつつも読書を続け、臨終に子弟へ「国恩に報いられぬまま逝くのが無念だ」と戒めた。翰林学士承旨光禄大夫柱国を贈られ魯国公に追封、諡は文忠。