元史卷一百七十五 列傳第六十二 張養浩

出自と地方官

  • 張養浩、字は希孟、済南の人。幼くして行義に篤く、道に落ちていた楮幣の持ち主を追って返した逸話がある。焦遂の推薦で東平学正、平章博果密の下で礼部令史となり、堂邑県尹として淫祠三十余所を毀ち、旧盗の集会者を「良民が飢寒に迫られた者だ」と釈放して感化した。李虎ら害民の徒を法により処断した。仁宗の東宮召見を経て監察御史となった。

尚書省批判と諫言

  • 尚書省設立に反対し、変法乱政を批判したが台臣に握りつぶされた。武宗の南郊親祀代行時、風害で凍死者が出たことを「代祀非人のため天が変を示した」と批判。時政の弊十事(賞賜太侈・刑禁太疎・名爵太軽・台綱太弱・土木太盛・号令太浮・倖門太多・風俗太靡・異端太横・取相の術太寛)を上疏し、当国者の不興を買い翰林待制に左遷、さらに罪を構えられて罷免され、姓名を変えて逃げた。

英宗朝の直諫

  • 尚書省罷止後、右司都事から翰林直学士・秘書少監を経て、延祐初年(1314年)進士科設置に伴い礼部侍郎知貢挙となり公正を貫いた。陝西行台治書侍御史・礼部尚書を経て、英宗が元夕に内庭で鰲山灯を作ろうとした際、世祖以来の禁を引いて「翫ぶものは小さいが係わる事は大きい」と諫め、帝は怒りつつも喜び「張希孟でなければ言えぬ」と灯を罷めた。

陝西の大旱と最期

  • 父の老いにより辞官帰養し、その後の召還にはたびたび応じなかった。天暦2年(1329年)関中の大旱饑饉に際し陝西行台中丞を拝命すると、家財を郷里の貧民に分け与えて赴任。道中で華山に雨乞いし、雨を得た。任地でも社壇に祈って大雨を得た。米価の高騰と昬鈔(損傷鈔)の交換難を、印記による確認制度と現物交換の劵で解決し、粟を集めて納粟補官の令も上請した。子を殺して母を養った民の話を聞いて大慟哭し、私財で救済した。到官後四月、昼夜賑饑に努め、ついに病を得て卒、享年60。関中の人々は父母を失ったように哀しんだ。至順2年(1331年)榮禄大夫陝西等処行中書省平章政事柱国を贈られ濱国公に追封、諡は文忠。