出自と東宮での輔導
- 李孟、字は道復、潞州上黨の人。幼くして敏悟、七歳で文を能くし、経史に博通した。至元14年(1277年)蜀に随行し官職を辞退、後に楊吉達の推薦で裕宗に召見されたが、裕宗の薨去で登用されなかった。成宗の代、先朝聖政の採訪編次を担当。武宗・仁宗がまだ皇子であった頃、徽仁裕聖皇后が名儒を求めた際「布衣李孟に宰相の才あり」と推薦された。
仁宗擁立の功
- 大徳元年(1297年)武宗が北方に出征中、仁宗の側で善言正道を陳べ続けた。仁宗が懐州に降居した際、孟は単騎で従い、孝弟の道を説いて仁宗を感化した。成宗崩御に際し、安西王阿南達が成后と結んで帝位継承を謀った時、孟は「支子は世祖の典訓により継嗣たりえない、太后を奉じて急ぎ宮庭に戻るべき」と進言。躊躇する仁宗に「邪謀が成れば母子とも保てない」と説き、決断させた。
- 哈喇哈斯の内応を得るため孟自ら偽って医師を装い脈を診るふりをして探りを入れ、決起を促した。周囲が武宗の到来を待つべきと言う中、孟は「先に発する者が人を制す」と説き、卜占によっても吉と出て、仁宗を奉じて内庭に入り安西王一派を捕らえさせ、武宗を迎え、内乱を鎮めた。
参政と讒言
- 仁宗監国時、参知政事に任じられたが、閭閻に通じた孟は倖幸を抑えたため小人に嫌われ、いったん逃げ去った。武宗即位後「孟は皇弟に自立を勧めた」との讒言があったが武宗は取り合わなかった。至大2年(1309年)仁宗が内宴で沈思する様子を武宗に問われ、仁宗は「李道復の功が多かった」と答え、武宗は捜索させて許昌陘山で見つけ召還した。至大3年(1310年)中書平章政事集賢大学士同知枢密院事、仁宗即位後は光禄大夫に進み三世に恩を推した。
仁宗朝の施政
- 太官の濫費や宿衛の冗員を汰し、賞罰の公正を説いた。釈老二教の官による政事の撹乱を批判し、僧道官を罷免して冤死者の名誉回復・濫冒の官爵剥奪を行った。仁宗の吏弊への厳罰方針に対し「吏にも賢者あり、変化激励すべき」と諫め、帝はこれを評価した。車服の僭擬・近臣の恩賜の濫用を抑える制限を建言し帝は従った。皇慶元年(1312年)翰林学士承旨知制誥兼修国史仍平章政事、爵は秦国公。科挙の実施を強く主張し「先に徳行経術、後に文辞」の方針を進言、延祐元年(1314年)実現した。
晩年と評価
- 延祐7年(1320年)仁宗崩御後、英宗が立つと太師特们徳尔が復相し、孟は集賢侍講学士に格下げされたが甘んじて拝命し、讒言は行われなかった。至治元年(1321年)卒。至治中、太保儀同三司上柱国を贈られ魏国公に追封、諡は文忠。三度中書に入り民間の利害を知悉して直言し、退居の際も蕭然として布衣のごとくであった。「毎政の繆りは特们徳尔のせい、毎令の善は孟のおかげ」と評された。子の献は御史中丞同知経筵事。