出自と学問
- 姚燧、字は端甫。三歳で孤児となり伯父の姚樞に養育された。蘇門に隠居していた樞の厳しい教育に堪えかねたが、楊奐の助言で穏やかになった。十三歳で許衡に学び、十八歳で長安で学問を始め、二十四歳から韓愈の文を読み文章家として頭角を現した。許衡から「文章は利器であり、その人を得ずして与えるも拒むも共に罪だ」と戒められた。
官途と実録編纂
- 至元8年(1271年)許衡が国子祭酒として召した旧弟子十二人の一人として太原から召され、秦王府文学、後に陝西四川中興等路学校提挙を兼任。至元12年(1275年)以降、蜀の安撫に三度赴き成果を上げた。至元17年(1280年)陝西漢中道提刑按察司副使として冤罪を晴らし、山南湖北道按察副使としても興学・賑民に努めた。
- 至元27年(1290年)大司農丞、元貞元年(1295年)翰林学士として世祖実録の編纂を総裁し、大徳5年(1301年)に完成させた。江東廉訪使、江西行省参知政事を経て、至大元年(1308年)太子賓客、翌年翰林学士承旨知制誥兼修国史。至大4年(1311年)南帰後まもなく卒、享年76、諡は文。
『国統離合表』と評価
- 蘇門山にいた頃『通鑑綱目』を読み国統の離合が年ごとに散らばっていることを憂い、告病後に『国統離合表』を著した。徽本・建本を校讐して三つの誤りを正し、建安から延康への改元、章武から建興への年次の混乱、天宝から至徳への改元表記など、正統観念に関わる訂正を詳論した。
- 学問は許衡に由来し、窮理致知・反躬実践を旨とした。文章は閎肆該洽で西漢の風があり、延祐以前の文章大家として並ぶ者がなかったという。高麗瀋陽王からの贈物を分与し自らは受け取らなかった逸話がある。著書に『牧庵文集』五十巻。