出自と地方官
- 馬紹、字は子卿、済州金鄉の人。丞相安図に儒士を求めるべきと進言し、平章政事張啓元の推薦で左右司都事となった。単州知事として徳政で知られ、至元10年(1273年)山東東西道提刑按察司事として饑饉時に発粟賑済。至元13年(1276年)和州路総管府同知として江淮平定後の民心安定に貢献した。
僧格政権下での抵抗
- 至元19年(1282年)皇太子の東宮分地の家丞召還を経て刑部尚書。庫吏の絨盗事件で軽減を主張し、河間の妄言惑衆事件では多くの人命を救った。至元22年(1285年)兵部尚書、至元24年(1287年)尚書省の参知政事。
- 平章政事僧格の怒りに逆らって、信州の三務提挙杜璠を弁護し重罪を免れさせた。海都の乱で帰順した民70余万を内地に移す僧格の案に反対し、口分に応じた羊馬支給を提案して帝に容れられた。総管三十人の財賦の多寡による考課にも反対を唱えた。塩課・賦税の増徴にも節倹を説いて反対した。
僧格失脚後
- 苜蓿地の権勢者による私物化に馬紹は加担せず、僧格が奏請して与えようとした賞も辞退。僧格失脚後の贈賄録に馬紹の名だけがなく、僧格自身「馬左丞の言を早く信じていれば」と述懐したという。中書左丞に復し、元貞元年(1295年)中書右丞・江浙行省事、大徳3年(1299年)河南省に移り、翌年卒。詩文数百篇を残した。