出自と若年
- 趙孟頫、字は子昂。宋太祖の子秦王徳秀の後裔で、五世祖秀安僖王子偁、四世祖崇憲靖王伯圭の系統。宋亡後は家居して学に励んだ。至元23年(1286年)、行台侍御史程鉅夫の推挙で入見し、世祖はその才気と容貌を大いに喜んだ。宋宗室であることを理由に近侍させるべきでないとの声もあったが、世祖は聞き入れなかった。
- 尚書省設立時、詔を起草して天下に頒布し、世祖はこれを喜んだ。刑部の議法で至元鈔二百貫の贓罪を死罪とする案に対し、鈔の実質価値の変動を論じて絹による贓罪計算の妥当性を説き、死刑適用に慎重を期すよう主張した。
僧格政権下での奮闘
- 至元24年(1287年)兵部郎中となり、駅站の負担軽減のため増鈔を建言。至元鈔法が滞った際には江南に赴き、丞相僧格の厳罰方針に反して一人も笞刑に処さず戻った。平江路総管趙全への冤罪の疑いを世祖に進言して真相を正した。
- 僧格の下で朝官が遅参を理由に笞刑を受ける中、孟頫自身も誤って笞られかけたが、右丞葉李に「刑は大夫に上らず」と訴え出て免れた。地震・水害の際、僧格の理算による重税を批判し、鄂爾根薩里と共に赦免を進言して帝の許しを得た。世祖に葉李と留夢炎の優劣を問われ、率直に評した詩を作り、帝の歎賞を得た。
晩年と評価
- 至元29年(1292年)済南路総管府事同知となり、清簡な政治を行った。廉訪司の圧力で京師に召還され、汾州知事などを経て集賢直学士・江浙儒学提挙に任じられた。延祐元年(1314年)翰林侍講学士、延祐3年(1316年)翰林学士承旨・栄禄大夫。帝は字で呼び名を呼ばなかった。李白・蘇軾に比され、書画は絶倫と称された。
- 延祐6年(1319年)南帰を許されたが病で行けず、至治2年(1322年)6月卒、享年69。魏国公に追封、諡は文敏。著書に『尚書註』『琴原』『楽原』等。子の雍・奕は書画で名を知られた。