元史卷一百七十二 列傳第五十九 程鉅夫

出自と生い立ち

  • 程鉅夫は名を文海というが、武宗の廟諱を避けて字で通した。先祖は徽州の出で郢州京山に移り、後に建昌に居を定めた。叔父の程飛卿は宋に仕え建昌の通判となったが、世祖の時に城を挙げて降った。鉅夫は人質として入朝し、宣武将軍・管軍千戸を授けられた。
  • 世祖に召見され、賈似道の人物評を問われて詳しく答え、その場で書かせた文章に世祖は大いに感心した。近臣に「相貌も言論も聡明で見識がある。翰林に置くべきだ」と語り、応奉翰林文字に抜擢した。世祖は「国家の政事の得失、朝臣の邪正をすべて朕に言え」と命じ、鉅夫は深く感謝した。

至元年間の献策と苦難

  • 翰林修撰から集賢直学士兼秘書少監に進み、至元29年(1292年)に江南の官吏の登用・南北の人材登用の均衡・功績評価の制度・貪贓者の名簿・江南官吏の俸給支給の五事を上奏し、多くが採用された。
  • 至元23年(1286年)尚書省設立に伴い参知政事に任じられたが固辞し、御史中丞に任じられた際、台臣が「鉅夫は南人で年少だ」と言うと世祖は激怒し、以後は省・部・台・院で必ず南人を参用するよう命じた。江南に詔を奉じて人材を求め、趙孟頫・葉李ら二十余人を推薦して登用させた。
  • 至元26年(1289年)、権臣僧格が苛政をしいて四方が騒然とする中、鉅夫は宰相の職は賢者を進めることが第一であり、財貨を殖やすことを事とすべきではないと上疏した。僧格は激怒して鉅夫を京師に留め殺害を六度奏請したが、世祖は許さなかった。
  • 至元29年(1292年)胡祗遹・姚燧・王惲らと共に召され、翌年閩海道粛政廉訪使となり、大徳4年(1300年)江南湖北道粛政廉訪使に転じて権臣の悪政を正した。大徳8年(1304年)翰林学士、大徳10年(1306年)旱魃・暴風・星変に応じて弭災の五策(敬天・尊祖・清心・持体・更化)を上奏。雲南に世祖平定の功徳を刻む文を撰した。

晩年

  • 至大元年(1308年)翰林学士承旨として成宗実録を修め、皇慶元年(1312年)武宗実録を修めた。皇慶2年(1313年)旱魃に応じて桑林六事を上奏し時宰の意に逆らったが、帝は厚く労った。李孟・許師敬と貢挙法を議し、経学は程頤・朱熹の伝注を主とすべきと建言し、詔を起草させた。
  • 病により辞去を願い出たが許されず、光禄大夫を授けられ京師を出て南還した。5年後に死去、享年70。泰定2年(1325年)大司徒柱国を贈られ楚国公に追封、諡は文憲。