元史卷一百七十 列傳第五十七 王利用

出自と地方官歴任

  • 王利用は字を国賓といい、通州潞県の人である。遼の贈中書令太原郡公である王籍の七世孫で、高祖以下はみな金に仕えた。王利用は幼くして穎悟で、弱冠にして魏初とともに学び名を斉しくし、諸名公が口を交わして彼を称誉した。初め世祖に潜邸で仕え、中書は掾に辟召したが就かなかった。
  • 中統初、百司の印章を監察することを命じられ、太府内蔵官を歴任し、山東経略司詳議官として出、北京路達嚕噶齊に遷り同知し、安州・粛州・汝州・蠡州・趙州の四州の知州を歴任し、入って監察御史を拝した。薊州に禁地があり民はその中で射猟できなかったが、邏者が州民を冒禁と誣告し家を籍しようとした。王利用がこれを糾すと邏者は上訴したが王利用はいっそう力めて弁じ、没収されたものをすべて民に戻させることができた。
  • 翰林待制兼興文署に擢けられ、旨を奉じて上都・隆興等路の儒士を程試し、直学士に陞り耶律鋳とともに実録を修めた。河東・陝西・燕南の三道提刑按察副使、四川提刑按察使として出た。四川の土豪に官府の長短を持つ者があり、問うてその実を得ると罪に当たり民はこれに頼って安んじた。都元帥の塔爾海は巫山県民数百口を抑え奴とした。民が訴え決しないでいたところ、王利用が檄を承けて覈問しことごとく出して民に戻した。
  • 大徳2年(1298年)、安西興元両路総管に改まり、興元では職田租額を減らし、他郡に及ぶ站戸の役をすべて除くと、民は甚だ便とした。ある婦人が夫を毒殺した事件があり、薬をどこから得たか問うと、吏は婦に富商から買ったと言わせようとしていたが、王利用は「家が富んでいるのに毒薬を買うとは人情に反する」と言い、訊問すると果たして冤であった。まもなく致仕して漢中に居ったが、成宗朝、太子賓客として起用され、まず時政に切な17事を疏上した。

17事の建言と晩年

  • その17事とは「天戒を謹んで畏れ祖宗の法を取り、母后に孝事し至尊を敬奉し、百姓を撫愛し本を敦く末を抑え、心を清くして政を聴き欲を寡くして身を養い、酒は節飲すべく財は節用すべく、功があれば必ず賞し罪があれば必ず罰し、讒言を杜絶し直諫を求納し、官職は材を量って授け、工役は時に相応じて動かし、近侍に時々経筵に赴かせ経史を講読させる」というものであった。帝と太子はこれを嘉納した。皇后がこれを聞き別本を録して進めることを命じた。
  • 王利用は老病により朝せられなくなると帝は医を遣わし診視させた。王利用は弟の利貞・利亨に「私は国の厚恩を受けているのに報いられずに恥じる。死生は命であり、薬もどうにもならない」と言い、ついに卒した。享年77。王利用は平生「恕」の字に自ら得たところがあると言っていた。亷希憲は当時の名相で簡重で許すことが少なかったが、かつて人に「今、文章政事を兼備するのは王国賓(王利用の字)その人だ」と語った。武宗が即位すると官僚旧臣として榮禄大夫柱国中書平章政事を制贈し潞国公に封じ諡を文貞とした。