出自と阿哈瑪特への抵抗
- 胡祗遹は字を紹開といい、磁州武安の人である。幼くして孤となったが、長じて読書し名流に知られた。中統初、張文謙が大名を宣撫すると員外郎に辟召された。翌年、中書詳定官として入り、至元元年(1264年)、応奉翰林文字を授かり、まもなく太常博士を兼ね、戸部員外郎に調され、右司員外郎に転じ、まもなく左司を兼ねた。
- 時に阿哈瑪特が国事を執り羣小を進用し官が冗に事が煩わしかったため、胡祗遹は「省官は省吏に若かず、省吏は省事に若かず」と言い、これにより権奸に忤い太原路治中を出て本路鉄冶を提挙兼ねた。歳賦が弁じられないことを理由に責められようとしたが、その蒞職に及んで最と聞こえ、河東山西道提刑按察副使に改まった。宋が平定されると荊湖北道宣慰副使となった。佃民でその田主が不軌を謀っていると訴える者があったが、胡祗遹はその冤を察し告げた者を坐罪させた。
- 済寧路総管となり枢府に軍政について8事を上げ、「役重・逃戸・貧難・正身入役・偽署文牒・官吏保結・有名無実・合併偏頗」とした。枢府はこれを是とし、その言をもって定法として著した。済寧が鉅野県に治を移し国初以来兵戈を経てその廃はすでに久しく民居は未だ集まらず風俗は朴野であったが、胡祗遹は郡子弟を選び師を択んでこれを教え自ら講論を為し、久しくしてその俗を変えることに務め、治効は最をもって称された。
- 山東東西道提刑按察使に陞り、至る所で豪右を抑え寡弱を扶け教化を敦し士風を厲し、民に父子兄弟で相訟する者があれば必ず懇切に天倫の重きを諭し、やむを得なければ法で繋げた。翰林学士を拝されたが赴かず、江南浙西道提刑按察使に改まったが、まもなく疾により帰った。至元29年(1292年)、朝廷が耆徳者10人を徴すと胡祗遹はその筆頭に挙げられたが疾により辞した。至元30年(1293年)、享年67で卒した。延祐5年(1318年)、礼部尚書を贈られ、諡は文靖。子の胡持は太常博士。