元史卷一百七十 列傳第五十七 雷膺

出自と地方官歴任

  • 雷膺は字を彦正といい、渾源の人である。父の雷淵は金の監察御史であった。雷膺は生まれて7歳で孤となった。金末、母の侯氏が雷膺を挈えて渾源に北帰し艱険をつぶさに嘗めた。織絍を業として雷膺に読書を課した。雷膺は篤志に学び母に事えて孝をもって聞こえた。太宗の時、郡国に科選を設け儒籍にある者はその家を復すよう詔された。雷膺は年ようやく弱冠でその選に与り、いよいよ自ら砥礪して文学をもって称された。丞相の史天沢が真定に鎮すると万戸府掌書記に辟召された。
  • 世祖が即位すると初めて十路宣撫司を置き詔により耆旧の使副子弟を選び僚属とすると、雷膺は大名路宣撫司員外郎を授かった。中統2年(1261年)、翰林承旨の王鶚・王磐が雷膺を翰林修撰同知制誥兼国史院編修官に薦めた。至元元年(1264年)、陝西西蜀四川道按察司参議に調され、至元2年(1265年)、陝西五路転運司諮議に改まった。至元4年(1267年)、蜀に用兵すると金符を佩び左壁総帥府事に参議し、師が還ると承務郎同知恩州事に陞った。
  • 憲府はその能を薦め、監察御史に拝された。まず君心・朝廷・百官を正すことを言い、また聚斂の臣は宰相にふさわしくないと斥けた。至元11年(1274年)、奉議大夫を加え河東山西道提刑按察司事を僉し、称職をもって聞こえた。至元14年(1277年)、朝列大夫山南湖北道提刑按察副使に進んだ。時に江南は新附で諸将が功を市い利を貪ることが多く、俘獲がしばしば無辜に及び、あるいは新民をむりやり籍して奴隷とすることがあったが、雷膺は令を出し民に戻れる者を数千に計った。
  • 至元18年(1281年)、淮西江北道提刑按察副使に転じ母老を理由に辞した。至元20年(1283年)、行台侍御史に遷り母を奉じて赴任し、湖広江西に分司し按察使2人と行省官吏の不法な者を弾劾した。至元22年(1285年)、母の憂に丁り官を去り、翌年、起復して中議大夫江南浙西道提刑按察使を授かった。時に蘇湖は多雨で稼を傷つけ百姓は食に艱しんだ。雷膺は朝廷に廩米20万石を発することを請い賑わせた。江淮行省は米を発するのが多すぎるとし三分の一を留めることを議したが、雷膺は「皇沢を布宣し困窮を恵養するのは行省臣の職務である。どうして有司の出納の吝を効うことができようか」と言い、行省は奪うことができずすべて給した。享年62で即座に致仕し山陽で老いた。

晩年の建言

  • 至元29年(1292年)、集賢学士に徴された。成宗が即位すると上都の朝会で諸故老を召し国政を諮詢し、雷膺はその筆頭に立ち建白すること多かった。ある日、便殿に延見され奏対は旨に称い、白玉帯環一つを賜った。翌年、鈔5千貫を賜り秩を2品に進めた。大徳元年(1297年)夏6月、疾により京師で卒した。享年73。通奉大夫河南江北等處行中書省参知政事護軍を贈られ、馮翊郡公に追封された。諡は文穆。子の雷肇は順徳路総管府判官、孫の雷豫は南陽府穰県尹。