元史卷一百七十 列傳第五十七 暢師文

出自と学問、四川での治績

  • 暢師文は字を純甫といい、南陽の人である。祖父の暢淵は中順大夫上騎都尉魏郡伯を贈られた。伯父の暢訥は詩名があり『地理指掌図』に注し、汴幕官に仕え太中大夫上軽車都尉魏郡侯を贈られた。暢師文は幼くして警悟で家貧しく書を持たず手録口誦し目を過ぎれば忘れなかった。弱冠にして許衡に謁え、許衡の門人の姚燧・高凝と相い友善した。至元5年(1268年)、時政十六策を陳じ丞相の安図がその才を奇として右三部令史に辟召した。
  • 至元12年(1275年)、丞相の巴延が宋を攻めると掾属に選ばれ江南の平定に従い、帰る際は舟中に書籍だけを載せていた。至元13年(1276年)、平宋事蹟を編んで上呈した。至元14年(1277年)、東川行枢密院都事を除され心を尽くして賛画し裨益するところが多かった。至元16年(1279年)、安西王が制を承け四川北道宣慰司経歴に改め、まもなく承直郎潼川路治中を除された。府舎を修めていて地を発くと銀50錠を得たが同僚が暢師文に10錠を分けようとするのを受けず、廟学と伝舎の修理に充て、余りは酒器を作って公用とした。
  • 至元19年(1282年)、制を承けて同知保寧路事に改まり、治は平簡を尚び反側を安んじた。至元22年(1285年)、西蜀四川道提刑按察司事を僉した。至元23年(1286年)、監察御史を拝し、糾劾は権貴を避けなかった。上呈した『農桑輯要』の書。至元24年(1287年)、陝西漢中道巡行勧農副使に遷り義倉を置いて民に種芸の法を教えた。至元28年(1291年)、陝西漢中道提刑按察司事を僉するに改まり、時に提刑按察司を粛政廉訪司に改めるとそのまま本道粛政廉訪司事を僉し、姦を黜け才を挙げ、その公正さに服さぬ者はなかった。

地方官の歴任と晩年

  • 至元31年(1294年)、山南道に徙り松滋・枝江が水患にあうたび毎年民を発して防水させ往返数百里で供給に苦しんでいたが、暢師文は江水が安流するようになると、その役をすべて罷めた。駙馬の伊都呼の家人が勢いを恃んで不法を働くと、暢師文はその甚だ悪しき者を治め流した。大徳2年(1298年)、山東道に改まり、入って国子司業となった。大徳7年(1303年)、陝西行中書省理問官として出、滞獄を決して少しも阿徇せず、まもなく疾により家居した。
  • 大徳9年(1305年)、陝西漢中道粛政廉訪副使に擢けられたが、また疾により赴かなかった。大徳10年(1306年)、太常少卿として起用され、翰林侍読学士朝請大夫知制誥同修国史に転じた。至大元年(1308年)、成宗実録を修め鈔百錠を賜られたが受けなかった。時に制作は多くその手から出た。至大2年(1309年)、少中大夫を加え、至大3年(1310年)、外任に補することを請い太平路総管を除された。時に大旱があり暢師文は俸を捐てて禱を致すと数日を経ずして澍雨が大いに降り豊年となった。当塗の人が牛を殺して雨を祈ったことで囚繋された者が60余人あったが、暢師文はこれを憫れんで釈した。
  • 公田の米が積もって家に満ちると「我が家に何人いてこれを尽くせようか」と言い、貧士や庶民を呼んでその取るがままにさせた。廉訪分司の官が前後に至った者は必ずまず暢師文に謁え「先生」と称した。暢師文は在任した期間は短かったが境内は晏然としていた。皇慶2年(1313年)、再び翰林侍読学士中奉大夫知制誥同修国史に召され、旨を奉じて「王勃成道記序」等の文を撰し、銀二鋌を賜られたが受けなかった。燕南河北道粛政廉訪使を除されたが病により官を去った。
  • 延祐元年(1314年)、翰林学士資徳大夫を拝すよう徴されたが河南に行き着いたところで病により襄陽に帰った。延祐4年(1317年)秋8月、河南郷試を考え、帰る途中、襄県の伝舎で卒した。享年71。襄陽の峴山に葬られた。泰定2年(1325年)、資政大夫河南江北等處行中書省左丞上護軍を贈られ、魏郡公に追封された。諡は文粛。後至元8年(1342年)、推忠守正亮節功臣を加贈された。三子のうち長子の篤は太中大夫江東道粛政廉訪副使に仕えた。