出自と阿哈瑪特弾劾
- 秦長卿は洛陽の人である。姿貎魁偉で性は俶儻、大志があった。世祖が京兆潜藩にあったとき、すでにその名を聞いていた。即位すると時才を収攬することに務め、布衣をもって京師に徴し、秦長卿は風節を尚び事を論じることを好み、劉宣とともに宿衛にあり気岸をもって相髙めた。
- 時に尚書省が立ち阿哈瑪特が専政すると、秦長卿は上書して「臣は愚贛ですがアフマドがその政を専らにし生殺を擅にして人がみなこれを畏れ、あえて言う者がないことを識っています。しかし怨毒はすでに甚だしいものになっています。その異議を禁絶し忠言を杜塞するのを観るに、その情は秦の趙高に似ており、私蓄が公家を踰えて非望を覬覦することは漢の董卓に似ています。春秋には『人臣に将有るなし』とあります。その未だ発せぬうちに誅するのが便宜です」と述べた。事は中書に下されたが、阿哈瑪特は便佞にして人主の意を伺うことに善く、またその資が人を動かすに足るため、中貴人が力めて救解し事は結局寝んだ。これにより大いに恨まれ、秦長卿は興和宣徳同知鉄冶事を除されたが、結局、折閲課額数万緡を誣告され、秦長卿を逮捕し下吏に籍家産を償官させ、また獄吏に殺させた。獄吏は紙を濡らしその口鼻を塞ぎ即死させた。
- まもなく王著が徒を集め阿哈瑪特を殺すと、帝は悟りまた阿哈瑪特に追罪し、棺を斵り屍を戮し、その子も併せて誅したが、秦長卿の寃は結局明かされなかった。秦長卿の従子の山甫は建康府判官となったが、秦長卿の寃状を聞き即日、官を棄てた。累々薦められても起たず卒した。山甫の子の従龍は南台治書侍御史に至り、従徳は江浙行省参知政事となった。