元史卷一百六十八 列傳第五十五 趙與□

宋宗室から翰林学士へ

  • 趙与□(字は晦叔。この字は底本で実体参照になっており「□」とする)は宋宗室の子で、かつて進士第に登り鄂州教授となった。至元11年(1274年)、丞相の巴延が渡江すると、趙与□は鄂州にいるその宗人を率いて軍門に上書し、殺人を嗜まなければ天下を一つにできると力めて陳べ、その宗党を全うすることを乞うた。後に巴延が京師に朝すると、世祖が宋宗室の賢者を問うたところ、巴延はまず趙与□をもって対えた。
  • 至元13年(1276年)秋9月、使者を遣わして上京に召され、幅巾深衣で見え、宋敗亡の故はことごとく権奸を誤用したことによると言い、その詞旨は激切で人を感動させた。世祖はこれを念じ、即座に翰林待制を授けた。朝廷が法を立てるとき多く咨訪され、趙与□の忠言讜論は憚らず進直学士に進み侍講に転じ、江南科斂の急なることや大姓の移括・宋世の丘壟が暴露されたことがみな大臣が擅に明詔を易えたことによると疏陳した。
  • 至元27年(1290年)、京師で霧が四塞し、明年正月甲寅、虎が南城に入ると、趙与□はまた権臣専政の咎を疏言し、退いて家居し罪を待った。まもなく僧格が敗れると、平章の博果宻が「趙与□は貧窶であるが節操があり抱負がある」と奏した。世祖は「非指権臣為虎者耶(虎を権臣に喩えたのはこの者ではないか)」と言い、鈔13000貫を賜り、歳ごとにその妻子に衣糧を給した。後に累遷して翰林学士となった。
  • その伯祖の趙師淵はかつて朱熹に学び家庭の授受には端緒があった。ここに至り趙与□は許衡と伊洛の閫奥を論じ、許衡もこれを雅敬した。趙与□が既に老いると、成宗はその子の趙孟実に特に官を授け終養させた。大徳7年(1303年)、疾により卒した。家は貧しく葬るすべがなかった。成宗は有司に賻鈔5000貫を命じ舟車を給し台州の黄岩に還葬させた。通議大夫礼部尚書上軽車都尉天水郡侯を贈られた。諡は文簡。