出自と阿哈瑪特への抵抗
- 陳思濟は字を済民といい、柘城の人である。幼くして読書し即座に大義を悟り、才器をもって時輩に知られた。世祖が潜邸にあったときその名を聞き召し、顧問に備えさせた。即位すると初めて省部を建て、敷奏を掌らせた。世祖は京兆を国の重鎮とし廉希憲らに陝西を行省させると、陳思濟も実にこれに偕行し賛画するところが多かった。
- 中統3年(1262年)、詔により王文統を誅すると、廉希憲を中書に召し入れさせ、陳思濟は還ってなお敷奏を掌った。事は巨細を問わずことごとく規準に就いた。姚樞・許衡もみな彼を器重した。阿哈瑪特が省に入ると、位が廉希憲の左にあることを恥じ、毎に肆意に行おうとしたが廉希憲は正を守って従わなかった。廉希憲が位を去ると、省臣は晨に掾属を集めたが、みな阿哈瑪特を憚りあえて前に出なかった。陳思濟だけが独り文牘を先に進めた。阿哈瑪特がすぐに廉希憲の位に署押しようとすると、陳思濟はすぐさま手で覆い「これは君相の署位ではない」と言った。阿哈瑪特は怒って目視したが、陳思濟は神色自若としていた。
- 右司都事に除され、廉希憲の山東行省に従い、まもなく召還された。至元5年(1268年)、中書省が百揆を総べ御史台が百官を正すことが分命されると、一時の黜陟登庸で憲章程式は多くその手から出た。承務郎同知高唐州事に遷り、績最をもって聞こえ、監察御史を拝した。時に阿哈瑪特が尚書省を立て権は中書の右にあり、陳思濟は魏初らとその不法を弾劾した。帝が近臣に正させると、御史は各々次第に対したが、陳思濟だけは厲声で「御史は言官である。弁訟のために設けられたものではない」と言い、袖を払って出た。
地方官としての公正な裁き
- 奉訓大夫知沁州を授かり、政を簡要にし苛察を務めなかった。中順大夫同知紹興路総管府事に遷り、檄を承けて訟を讞した。桐廬に囚人があり羸瘠して死にそうであったが、家に還すよう縦し、決を待つ期に召し出すと、拝して「公の名を聞くこと久しく、もし早く決められなければ結局は保てないかと」と請うたので、その案を閲して釈した。両浙都転運司事に同知に転じ、胥吏が民を侵漁し賦役に困らせていたのをみな蠲除した。陝西漢中道提刑按察副使に調され、母の憂により官を去った。
- 至元23年(1286年)、少中大夫に加えられ同知浙東道宣慰司事となった。時に浙西で大水があり民が饑え、浙東は倉廩が殷実であったので即座に転輸して賑わせ、全活する者が多かった。上げた文書は中書に奏上され允された。浙東が再び旱れば、名山に禱ると雨が大いに降り、民はこれに頼って甦った。両淮の塩課が足りなかったため嘉議大夫両淮都転運使を授かると、奸弊をことごとく革め商賈が通行し歳課は足りるようになった。嶺北湖南道粛政廉訪使に擢けられ、池州路総管に改まった。江浙行省平章の伊蘇岱爾は威勢赫然として淘金戸3000戸を摘え民間の田畆を括ろうとしたが、檄が下るや力めて上章してこれを止めた。累遷して中議大夫僉河南江北等處行中書省事となった。
- 大徳5年(1301年)冬、疾により卒した。享年70。正議大夫吏部尚書上軽車都尉を贈られ、潁川郡侯に追封された。諡は文粛。子の陳誠は蔭を襲いで官に入り、監察御史・朝列大夫僉広西道粛政廉訪司事を拝した。