出自と阿哈瑪特への抵抗
- 何榮祖は字を継先といい、その先祖は太原の人であった。父の何瑛は金の貞祐年間に試文法で優等に補吏し、後に明威将軍守鉅鹿尹権軍器監主簿を授けられた。金が亡ぶと広平に家を徙した。何榮祖は状貎魁偉で額に赤文があり双樹のようで背は隆起し、相する者は「子は位、人臣を極め寿相もある」と言った。何氏は世々吏を業とし、何榮祖は特に通習し、吏をもって中書省掾に累遷し、御史台都事に擢けられ、初めて折節して読書した。
- 阿哈瑪特が事を用いていたとき総管をその家に置き四方の利を収める「和市」と号したが、監察御史の范方らはその非を斥け論すること甚だ力めた。阿哈瑪特は何榮祖がその謀を主どっていると知り、奏して左右司都事とし己に隷させたが、まもなく御史台に治書侍御史を除され侍御史に升り、山東按察使として出た。阿哈瑪特はその志を逞しくできなくなった。
- 貪墨をもって僉事の李唐卿に弾劾された特穆爾喇實がおり、計に窮したところ、たまたま済南で上変告する者があり、唐卿はその虚偽を察して訟牒を焚いたが、特穆爾喇實はこれを摭って唐卿が反者を縦したと告げ、逮繋数十人に及び獄が久しく決しなかった。詔により何榮祖は左丞の郝禎・参政の耿仁傑とこれを鞫問した。何榮祖は実情を得て告げた者を抵罪させようとしたが、郝禎・耿仁傑は失口乱言の罪に坐すべきだと議し、何榮祖は不可とした。まもなく河南按察使に遷ったが、二執政は結局失口乱言の罪でその人を杖打ち、株連された者はみな釈された。唐卿の誣告はついに明白になった。
- 平涼府が南人20余輩が江南に叛帰したと言い、安西行省は上聞しようとしたが、たまたま何榮祖が参政として来てこれを止め「なぜ上聞するのか。朝廷はこの輩の去った者はみな人の奴であるだけであると言うだろう。今、江南平定を聞いて遁往し家を求めているだけだから、文を移して召し捕らえればよい」と言った。まもなく逃げた者はみな捕らえられ、果たして人の奴であった。本罪をもって治め、その主に付した。事に明決なることこの類が多かった。
- 雲南行省参知政事を除されたが、母老を理由に辞し、また御史中丞を拝したが、また出て山東東西道按察使となった。時に宣慰使の楽実・姚演は膠州海道に諸人が糧舶を沮撓することを禁ずる制があると聞き、暴風に遇い漂覆したことが多くあった。楽実はこれを信ぜず諸漕卒を督促してこれを償わせ、搒掠が惨毒で自殺する者が相次いだが、按察官は制に違うのを懼れあえて言う者がなかった。何榮祖は「まず言うべきだ。もし朝廷に譴められるなら私が引き受ける」と言い、即座に草辞を上奏すると、詔によりその徴収を免じた。
僧格との対立と法典編纂
- 尚書参知政事として召し入れられた。時に僧格が専政し理算銭穀を急いでいたため、人々はその害を受けていた。何榮祖は再三これを罷めるよう請うたが帝は従わず、しばしば懇請してようやくやや緩まったが、畿内の民は苦しみ尤も甚だしかった。何榮祖は毎にこれを理由として同僚に「上はすでに諸路を免じたが、まだ在京に及んでいない。少し止めて言わないように」と言ったが、何榮祖の主張はいよいよ堅くなり、旨に忤うところにまで至っても少しも屈せず、結局その牘に署さなかった。1ヶ月も経たぬうちに害民の弊はみな聞こえ、帝はついに何榮祖の言を思い出して所宜を問うた。何榮祖は歳末に局を立てて考校することを請うと人々は便とし、成式とされた。詔により鈔11000貫を賜った。何榮祖は中外百官の規程を条陳し時弊を矯めようとしたが、僧格が抑えて通さなかった。何榮祖は僧格と異議のまま、病を告げ特に集賢大学士を授けられた。
- まもなく尚書右丞として起用されたが、僧格が敗れると中書右丞に改まり、定めた「至元新格」の施行を奏し、提刑按察司を粛政廉訪司に改め監治の法を立てることを請うた。また「国家の用度は不足させてはならず、天下の百姓も安からずにいてはならない。今、財を理する者は民力の困を顧みず、治を言う者は国計の大を図らない。かつ用いるべき人は常に多く、得て用いられる人は常に少ない。要は省部こそ根本であり、必ず材を択んで用いるべきだ。按察司は一道を監臨するといっても、その職は蠧弊を除き民を安んずるにある。もし至らないところがあれば、台省がまた官を遣わして体察すべきで、そうすればおのずと益するところがある」と上言し、帝は深くこれを然りとした。
- しばしば老疾を理由に機務からの解放を乞い、詔により署事を免じられたが、なお中書に議に預かることを許され食禄した。まもなく昭文館大学士を拝し中書省事に預かり、また平章政事を加えられたが、水旱を理由に罷めることを請うても許されなかった。それより前、何榮祖は旨を奉じ「大徳律令」を定め、書はすでに完成していたが、この時になってようやく上奏を許され、詔により元老大臣を集めてこれを聴かせた。頒行に及ばぬうちに、子の秘書少監である何恵が没したため、広平に帰り、享年79で卒した。光禄大夫大司徒柱国を贈られ、趙国公に追封された。諡は文憲。
- 何榮祖は身が大官に至っても第宅を借りて住み、飲器には青瓷杯を用いていた。中宮はこれを聞き、上尊・金50両・銀500両・鈔25000貫を賜り、器を置き宅を買うことを命じてその廉を旌した。著書には『大畜十集』のほか、『学易記』『載道集』『観物外篇』等の書がある。