元史卷一百六十七 列傳第五十四 姜彧

李璮の乱平定への功

  • 姜彧は字を文卿といい、萊州萊陽の人である。父の姜椿は乱を避けて済南の張栄を頼り、そのまま家とした。姜彧は幼くして穎悟で好学であった。張栄が済南を守ると掾に辟召され、左右司知事に陞り、まもなく郎中に遷り参議官に進んだ。
  • 中統3年(1262年)、姜彧は張栄の孫の宏とともに入朝し、益都の李璮の反状がすでに露見しているので、まだ発する前に先んじて制すべきだと言ったが、報われなかった。翌年春、李璮は果たして反し、諸郡は兵備がなかったため、李璮はすぐに済南に襲拠した。姜彧は家を棄て張栄に従い、散亡した兵を招集し、諸王の哈必齊を迎えて進軍し討伐した。
  • 秋7月、捕らえた生口が城中の糧が尽き勢いが窮まっていると言うと、姜彧は昏夜に王に見えることを請い、「王が陛辞するとき、面って詔を受けたのは『兵を発して璮を誅すのみで、無辜には及ぶな』ということだったと聞いています。今、旦夕に城が破れようとしています。王は早く諸将に諭し、城門を分守させ、兵を縦しにさせぬようにすべきです。さもなければ城中に生き残る者はいなくなるでしょう」と言った。王は「汝は城が破れることを、陰陽を解いて知ったのか」と言った。姜彧は「人事によりこれを知りました。城が破れてから王に言うのでは遅すぎます」と答えた。王は悟り、翌日、賊衆は門を開いて出降し、王は諸軍に城に入る者は軍法で論じると令を下した。李璮は捕らえられ、城中は按堵し故のごとくなった。
  • 姜彧は功により大都督府参議を授かり、知濵州に改まった。時に省営の軍士は多く民田を占めて牧地とし、牛馬を縦して民の禾稼・桑棗を壊していた。姜彧は中書に言上し、官を遣わして疆畔を分画させ、強猾で不法の者を捕らえて法に置いた。そこで民に桑を植えることを課し、歳余りで新しい桑が野に遍り、人々は「太守桑」と名付けた。

地方官としての晩年

  • 東平府判官に遷ると、民は道を遮って留任を請い、馬を留めて行かせなかった。至元5年(1268年)、治書侍御史を拝し、出て河北河南道提刑按察使となり金虎符を賜った。信州路総管に改まり、後に累遷して陝西・漢中・河東・山西道提刑按察使となり、行台御史中丞を拝した。後に老病により済南に帰り、まもなく燕南河北道提刑按察使に擢けられた。至元30年(1293年)2月、疾により卒した。享年76。子は迪吉。