出自と対宋征伐への従軍
- 張礎は字を可用といい、その先祖は渤海の人であった。金末、曾祖の張琛は燕の通州に徙り、祖父の張伯達は呼圖克諾延に従い燕薊の地を略した。金の守臣の富察齊錦は城を呼圖克に降し、呼圖克は制を承けて張伯達を通州節度判官とし、そのまま通州を知った。父の張範は真定勧農官となり、そのまま家を構えた。
- 張礎は儒業を修めた。丙辰の年、平章の廉希憲が世祖の潜邸に推薦した。時に真定は諸王額呼布格の分地であったが、額呼布格は張礎が自分に附かないことを恨み、使者を世祖に遣わして「張礎は我が分地の人であり、我に帰すべきだ」と言わせた。世祖は使者に「兄弟至親、どうして彼此があろうか。かつ我はまさに宋の事に力を尽くしているところであり、張礎のような者はまことに頼みとする人材で、天下平定を待ってから遣わすべきだ」と答えさせた。
- 己未の年、世祖の宋征伐に従い、徴発される軍旅の文檄はことごとくその手から出た。中統元年(1260年)、中書省が立てられると張礎は左右司事を権り、まもなく彰徳路拘榷官として出、再び入って三部員外郎となり、金符を賜り平陽路同知転運使となり、知献州に転じ、東平府事に同知し、また知威州に改まった。
提刑按察使としての公正な裁き
- 威州で、ある婦人が驢馬に乗って市を過ぎたところ、投下官の昻吉の奴が鳴鏑を引いて婦人を射て墜落させ死なせた。奴は昻吉の家に匿われた。張礎がこの事を上聞しようとすると、昻吉は懼れてその奴を出させ、法のとおり処罰した。
- 至元14年(1277年)、諸道提刑按察司が立てられ、張礎は江南浙西道提刑按察副使となり金符を佩びた。宣慰使の実哩は貪暴で良民を略奪して奴としていたため、張礎はこれを弾劾し黜けた。遂安県民が険を頼んで衆を集め乱を起こそうとしたため、張礎は同知浙西道宣慰使の劉宣とともに兵を領してこれを捕らえるよう命じられた。劉宣はすぐに進兵しようとしたが、張礎は「江南は新附であり守吏は撫でることを失うことがある。人を遣わして招諭し衆を全うすべきだ」と言った。劉宣は不可としたが、張礎は「諭してなお来なければ、誅罰は遅くない」と言い、人を遣わして諭させると、逆党は果たして自ら縛られ罪を請うた。張礎はこれを釈し、劉宣は感嘆して服した。
- 嶺南広西道提刑按察使に遷った。広西宣慰使の伊埒図は民財を強奪していたため、張礎はその罪を按じ、嶺北湖南道提刑按察副使に遷った。賓州路総管を授かったが赴任せず、国子祭酒を拝し、まもなく安豐路総管として出た。至元31年(1294年)、官途にて卒した。享年63。昭文館大学士正奉大夫を贈られ、清河郡公に封ぜられ、諡は文敏。子の張淑は衛輝路推官。