元史卷一百六十五 列傳第五十二 張禧

父子で信安を守り抜く

  • 東安州の人。父仁義は金末に益都から信安へ移り、燕薊が陥落する中で信安のみ金が守り続けた。国兵が信安を囲んだ際、仁義は敢死の兵300を率い城門を開いて出撃し包囲を解いた功で軍馬総管に署せられ10年余り持ちこたえたが、支えきれず主将とともに内附。宗王ハタン(哈坦)に従い河南を平定し管軍元帥、後に帰徳攻めで矢が口に刺さり歯2本を折ったが没後に県侯を追贈された。

鄂州攻防と日本遠征

  • 禧は16歳で額斯倫の南征に従い、元帥察罕に従って夀春・安豐・廬・滁・黄・泗の諸州で戦功を挙げたが峭直な性格ゆえ主将に忌まれ誣告された。王鶚の庇護で世祖に近侍し、子の弘綱ともども召見された。己未(1259年)鄂州包囲戦では敢死の応募兵として城の東南から突入、世祖は父子ともに危地にあることを憐れみ一人だけの進戦を命じたが、槍が折れた禧に代わり弘綱が槍を奪って入城、禧は矢18本を受け一矢は腹を貫いて絶命寸前となったが血竭で蘇生した。
  • 世祖即位後、新軍千戸。李璮討伐、均州・襄樊攻防で吕文煥の水軍と戦い水軍総管に転じ、断鎖毁橛(鎖と杭を断ち援軍を絶つ)策で樊城陥落・襄陽降伏に貢献。丞相巴延の下で水軍先鋒となり丁家洲・黄池・温台福建の攻略に転戦し都元帥に至る。至元18年(1281年)日本征討に平章政事として出征、平湖島に築塁するも8月の颶風で范文虎らの艦は壊滅、禧の部隊のみ無事だったが范文虎らの撤退提案を拒否し進撃を主張。結局船を分け与え、平湖島に取り残された屯兵4000のための馬70匹まで棄てて彼らを助けた。帰京後、范文虎らは罪を得たが禧は免れた。
  • 子弘綱、字憲臣。父が誣告された18歳のとき自ら投獄され共に脱獄、以後父の従軍で戦功を重ね昭勇大将軍河南諸翼征行万戸に至るも、劉深の八百媳婦国征討で叛蛮宋隆濟らと戦い戦死、湖広等処行中書省左丞・斉郡公を追封され諡は武宣。子漢は職を弟鼎に譲り監察御史から集賢直学士に至り、鼎は江陰水軍万戸を襲職した。