元史卷一百六十四 列傳卷五十一 楊恭懿・王恂・郭守敬・楊桓・楊果・王構・魏初・焦養直・孟攀鱗・尚野・李之紹
楊恭懿――学問と度重なる召命
- 字元甫、奉元の人。学問に励み記憶力に優れ、親と共に戦乱を逃れる中でも学業を廃さなかった。17歳で西へ帰り貧しさの中で親を養いつつ学び、易・礼・春秋を深く究め、朱熹の四書集注を得て「人倫日用の道と天道性命の妙が全てここに集まる」と感嘆した。父の喪に五日間水漿を口にしなかった。
- 宣撫司行省の招聘を辞退。至元7年(1270年)許衡とともに召されたが応じず、丞相安図が右相の前でその賢を称え続けた。至元10年(1273年)の召命にも病と称して応じなかったが、11年(1274年)太子が漢の恵帝が四皓を聘した故事に倣うよう中書に命じ、丞相が張元智を遣わして招くと初めて上京。世祖は国王和童に労わせ、鄉里・族氏・師承・子姓まで親しく尋ねた。
楊恭懿――改暦事業と晩年
- 至元12年(1275年)正月2日、南征の軍情について占わせた縁で、侍読学士図克坦公履が取士科の設置を建言、恭懿に議させると「経学を治めず賦詩空文に走る風を改め、経義論策で試すべき」と説き帝に喜ばれたが、まもなく北征のため帰郷した。
- 至元16年(1279年)召還され太史院で改暦に参与。17年(1280年)2月、旧暦の日行盈縮・月行遅疾・五行周天の精度不足を指摘し、新儀と旧儀の実測を比較して「辛巳暦」を推算完成させたと奏上、暦法の変遷(何承天の元嘉暦、虞&KR1184;の大同暦、劉焯の皇極暦、傅仁均の戊寅暦、李淳風の麟徳暦、一行の大衍暦などの定朔・平朔の変遷)を踏まえ実測に基づく改暦の必要を論じた(詳細は郭守敬伝に見える)。帝は許衡と恭懿を集賢学士兼太史院事に任じた。
- 至元18年(1281年)辞して帰郷。20年(1283年)太子賓客として、22年(1285年)昭文館学士領太史院事として、29年(1292年)議中書省事として召されたがいずれも赴かず、31年(1294年)70歳で没した。
王恂――幼少期と裕宗の輔導
- 字敬甫、中山唐県の人。父良は金末に中山府掾として乱後の連座者数百人を救い92歳で没した。恂は3歳で文字を識り、6歳で就学、13歳で九数を極めた。
- 己酉(1249年)、太保劉秉忠が中山を通り恂の才を見出し、南還後は磁州紫金山で秉忠に師事。癸丑(1253年)秉忠の推薦で世祖に六盤山で召見され裕宗の太子伴読となる。中統2年(1261年)太子賛善に擢され時に28歳。3年(1262年)裕宗が燕王として中書令兼判枢密院事となると、両府の咨稟は必ず恂を通すよう命じられた。
- 恂は算術に早くから名高く、裕宗に「算数は六芸の一つだが、国家を定め民を安んずるのは大事である」と説き、三綱五常と歴代の治乱・遼金の得失を常に講じた。裕宗の心の拠り所を問われ、許衡の「人心は印板のようなもの、板本が正しければ何万枚摺っても違わない」との言を伝えた。
王恂――授時暦の完成と晩年
- 国朝が金の大明暦を久しく用いて疎らになったのを正すため、算術に精通した恂に改暦を命じられ、許衡を挙げて共に事に当たらせた。楊恭懿・郭守敬らと歴代四十余家の暦書を遍く考証し、日夜測験して新法を創立。至元16年(1279年)嘉議大夫太史令、17年(1280年)暦成り授時暦と名付けられその冬に天下に頒行された。
- 18年(1281年)父の喪に哀毀し47歳で没した。裕宗は病中から医を遣わし、葬儀にも鈔二千貫を賜り、後に帝は改暦の功を思い鈔五千貫を家に賜った。延祐2年(1315年)推忠守正功臣光禄大夫司徒上柱国定国公を贈られ、諡は文粛。子の寛・賓はともに許衡に学び、星暦の伝を家学として継いだ。
郭守敬――水利の建言
- 字若思、順徳邢台の人。生まれつき異才があり、大父栄に五経・算数・水利を学んだ。中統3年(1262年)張文謙の推薦で世祖に召見され水利六事を面陳:中都旧漕河を東の通州まで玉泉水で通す案、順徳達活泉を城中に引く案、順徳澧河の古道復旧案、磁州の滏漳二水を灌漑に用いる案、懐孟沁河の余水利用案、黄河西の少分渠開削案(灌田数千頃を各見込む)。世祖は「事を任せる者がこれほどなら素餐(無為徒食)ではない」と称賛し、提挙諸路河渠に任じた。
- 至元元年(1264年)張文謙に従い西夏に行き、唐来渠(長四百里)・漢延渠(長二百五十里)など古渠の修復を行い九万余頃の灌漑を回復。2年(1265年)都水少監、中興から東勝まで水運の便を説き、査泊・烏梁海の古渠の修理、金口(盧溝の分流)の再開通を提言した。
郭守敬――授時暦の制作と天文儀器
- 至元12年(1275年)河北山東の通舟可能な河を視察。13年(1276年)王恂とともに南北日官を率いて測験・推歩を分掌、暦の本は測験にあり測験の器は儀表にあると説き、旧儀の誤差を正し、簡儀・高表・候極儀・渾天象・玲瓏儀・仰儀・立運儀・証理儀・景符・闚几・日月食儀・星晷定時儀・正方案・仰規覆矩図など多数の天文儀器を創製した。
- 16年(1279年)太史院に改め同知太史院事、監候官14員を分道させ東は高麗、西は滇池、南は朱崖、北は鉄勒に至る27所で測験を実施。17年(1280年)新暦告成、守敬らは連名で上奏し歴代暦法の沿革(黄帝の推策から劉洪の乾象暦、姜岌の三紀甲子暦、何承天の元嘉暦、祖冲之の大明暦、劉焯の皇極暦、李淳風の麟徳暦、一行の大衍暦、姚舜輔の紀元暦まで千百八十二年・七十改暦・創法十三家)を述べ、実測に基づき正した七事(冬至・歳余・日躔・月離・入交・二十八宿距度・日出入昼夜刻)と新たに創った五法(太陽盈縮・月行遅疾・黄赤道差・黄赤道内外度・白道交周)を詳述した。
- 19年(1282年)恂の没後、守敬が推歩七巻・立成二巻・暦議擬藁三巻・転神選択二巻・上中下三暦注式十二巻を整理、時候箋注二巻・修改源流一巻、儀象法式二巻・二至晷景考二十巻・五星細行考五十巻・古今交食考一巻・新測二十八舎雑座諸星入宿去極一巻・新測無名諸星一巻・月離考一巻を著し官に蔵した。23年(1286年)太史令を継いだ。
郭守敬――通恵河の開削と最晩年
- 28年(1291年)大都運糧河(一畝泉を用いず北山の白浮泉を引く新案)等水利十一事を建言、帝は喜んで速やかな実行を命じ都水監を復置して守敬に領させ、丞相以下自ら畚鍤を執って工事にあたった。閘は十里ごとに七か所設けられた。
- 30年(1293年)帝が上都から戻る途中、積水潭で船で埋まる様を見て大いに喜び「通恵河」と名付け、守敬に鈔一万二千五百貫を賜った。31年(1294年)昭文館大学士知太史院事。大徳2年(1298年)鉄幡竿渠の開削を議し、守敬は水路の幅を広くとるべきと主張したが執政が工費を惜しみ縮小させ、翌年果たして山水が渠に収まらず人畜廬帳が漂没、成宗は「郭太史は神人なり、その言を用いなかったのが惜しい」と嘆いた。
- 7年(1303年)70歳以上の官の致仕を許す詔が出たが守敬のみ許されず、以後翰林・太史・司天の官は致仕しない慣例となった。延祐3年(1316年)86歳で没した。
楊桓――学問と玉璽鑑定
- 字武子、兗州の人。幼くして「宰予昼寝」の章を読み慨然と志を立て、以後病気以外は昼寝をしなかった。中統4年(1263年)済州教授、後に済寧路教授から太史院校書郎に召され儀表銘・暦日序文を撰し辞典雅と評された。
- 至元31年(1294年)監察御史。穆呼哩の曾孫碩徳の家で発見された玉璽を桓が「受天之命既寿永昌」と文を判読し、歴代伝国の璽であると述べて由来を記し徽仁裕聖皇后に献上した。
- 成宗即位に際し時務21事を上疏:郊祀天地・親享太廟・先定首相・朝見群臣訪問時政・詔儒臣侍講・設太学府州儒学・行誥命褒善叙労・異章服別貴賤・正礼儀肅宮庭・定官制省冗員・講究銭穀裕国用・訪求暁習音律・国子監不隷集賢院・試補六部寺監及府州司県吏・増内外官吏俸禄・禁父子骨肉奴婢相告訐・定婚姻聘財・罷行用官銭営什一之利・復笞杖以別軽重之罪・郡県吏中統前仕宦者宜加優異・為治之道各従本俗。帝はこれを嘉納した。
- 秘書少監に陞り大一統志の編纂に参与、任期満了後は兗州に帰り資産を弟楷に譲った。大徳3年(1299年)国子司業に召されたが未赴のまま66歳で没した。篆籕の学に精しく、六書統・六書泝源・書学正韻を著した。
楊果――地方官の名声と楽府
- 字正卿、祁州蒲陰の人。幼くして父母を失い、宋から亳へ移りさらに許昌に居を移し章句を教えて糊口をしのぎ十余年流寓した。金正大甲申(1224年)進士に登第、参政李蹊の推薦で偃師令となり廉幹をもって称され、満城・陝の劇県を治め治効が最上とされた。
- 金滅亡の己丑(1229年)、楊奐の河南課税徴収に招かれ経歴となり、史天澤の河南経略では参議として草創期の法度を補佐した。世祖中統元年(1260年)十道宣撫使が設けられ北京宣撫使、翌年参知政事。至元6年(1269年)懐孟路総管として学廟を大修し、老いて致政、家で75歳で没し諡は文献。聡敏で楽府に長じ、内は智を秘め諧謔を好んだ。西菴集が世に伝わる。
王構――翰苑での活躍と諫言
- 字肯堂、東平の人。父公淵は金末の乱で墳墓を守り抜き一族の存続を果たした。構は穎悟で学問該博、弱冠で詞賦により東平行台掌書記に選ばれ、参政賈居貞に重んじられた。至元11年(1274年)翰林国史院編修官、丞相巴延の宋討伐に際し詔の草稿を命じられ世祖を悦ばせた。宋滅亡後は李槃とともに旨を受け杭州で三館図籍・太常天章・礼器儀仗を京師に回収した。
- 吏礼郎中を歴任し河南の冤罪を多く弁じ、太常少卿として親享太廟の儀注を定め、淮東提刑按察副使に擢された。治書侍御史として僧格が相の時、平章博果密の逋負追及の任にあたり危険を一身に引き受けた。世祖崩御時は諡冊を撰し、成宗立つと実録を纂修。参議中書省事のとき田賦括査の提案を平章何栄祖と共に強く諫めて阻止した。
- 武宗即位で翰林学士承旨に召されるが未幾に63歳で没した。三朝に仕え台閣典故に通じ、寒士の推薦を好んだ。子士熙は中書参政、南台御史中丞に至り、士㸃は淮西廉訪司僉事となり、いずれも文学で家業を伝えた。
魏初――従祖璠の忠節と自身の諫言
- 字大初、弘州順聖の人。従祖の璠は金貞祐3年(1215年)進士で、金宣宗に将相の人選と徳陵の礼を諫めたが用いられなかった。金将武仙の軍に招かれ数千人の散亡兵を招集して長を立て、金主にも処置を評価された。璠は和琳で70歳で没し諡は靖粛。初は璠の後を継ぎ、読書を好み春秋に長じた。
- 中統元年(1260年)中書省の掾史に辟され、後に許衡・竇黙らの推薦で国史院編修官、監察御史として「法は天下を持する具」と説いた。宴で大盃を飲み干せぬ者の冠服を免ずる措置に対し、尊卑の礼が乱れると諫めて中止させた。大興での括兵に反対し免れさせ、監察御史・按察司官が毎年一人を自代に推挙する制度を建言し劉宣を推挙した。
- 陝西河東按察副使、治書侍御史、侍御史行御史台事于揚州、江西按察使、侍御史行台移建康を経て中丞となり61歳で没した。子の必復は集賢侍講学士。
焦養直――経筵での進講
- 字無咎、東昌堂邑の人。至元18年(1281年)世祖が符宝郎を典瑞監に改める際、真定路儒学教授から典瑞少監に抜擢された。24年(1287年)納延征討に従軍、28年(1291年)宅を賜り帷幄に侍し古先帝王の政治を説き、漢高帝の逸話を論弁して帝を喜ばせた。
- 大徳元年(1297年)成宗の柳林行幸に従い資治通鑑を進講、規諫の言を陳べ酒と鈔一万七千五百貫を賜った。2年(1298年)金帯象笏、3年(1299年)集賢侍講学士、通犀帯を賜る。7年(1303年)太子の宮中教導に誠を尽くし帝を喜ばせた。8年(1304年)南海に代祀、9年(1305年)集賢学士、11年(1307年)太子諭徳、至大元年(1308年)集賢大学士。告老して帰郷後に没し、資徳大夫河南等処行中書省右丞を贈られ諡は文靖。子徳方は蔭により興国路総管府判官。
孟攀鱗――上疏70事と晩年
- 字駕之、雲内の人。曾祖彦甫は西北路招討司知事として百余人の冤罪を免じた。攀鱗は幼くして一日万言を誦し竒童と称され、金正大7年(1230年)進士に登第。汴京陥落後は平陽に帰り、丙午(1246年)陝西帥府詳議官として長安に居を構えた。
- 世祖中統3年(1262年)翰林待制同修国史、至元初、召見され70事を条陳(郊祀天地・祠太廟・制礼楽・建学校・行科挙・択守令以字民・儲米粟以贍軍・省無名之賦・罷不急之役・百司庶府を六部に統し紀綱制度を中書から一貫させることを大意とする)。
- 人物評として王百一を「翰苑向き」、許仲平を「後学の矜式」と評した。宗廟郊祀の儀制を経典に基づき説き、親祀に際し夜通し郊祀・宗廟図を描いて奏進した。病により西帰を願い出て陝西五路四川行中書省事を議させられた。至元4年(1267年)64歳で没した。延祐3年(1316年)翰林学士承旨資徳大夫上護軍平原郡公を贈られ諡は文定。
尚野――地方官と国子監での教育
- 字文蔚、その先は保定の人で満城に徙る。幼くして穎異、祖母劉氏がその学資を助けた。至元18年(1281年)処士として国史院編修官に徴され、20年(1283年)興文署丞を兼ね、汝州判官として廉介の評を得た。
- 28年(1291年)南陽県尹、獄訟の停滞を裁決し無事となる。懐孟河渠副使に改め、河渠官を廃し有司に一本化すべきと建言し実現。大徳6年(1302年)国子助教、丞相ハラハスの命で野が初めて上都で分学を開き諸生を教えた。まもなく国子博士に陞り、経学重視の教育方針を説いた。
- 至大元年(1308年)国子司業。仁宗が東宮にあった頃、太子文学として裨益するところが多かった。4年(1311年)翰林直学士知制誥同修国史。廕補官の吏部試用に寛大な措置を取り「初めての制度ゆえ習熟を待つのみ」と説明した。皇慶元年(1312年)翰林侍講学士、延祐元年(1314年)集賢侍講学士兼国子祭酒、2年(1315年)満城に帰り、6年(1319年)76歳で没した。贈通奉大夫太常礼儀院使、諡は文懿。
李之紹――翰苑での文才と晩年
- 字伯宗、東平平陰の人。幼くして頴悟聡敏、東平の李謙に学び貧しくとも郷里で教授した。至元31年(1294年)世祖実録纂修にあたり馬紹・李謙の推薦で将仕佐郎翰林国史院編修官となり、直学士姚燧が試みに与えた大量の応酬文を即座に書き上げ「名下に虚士なし」と驚喜させた。
- 大徳2年(1298年)祖母の病で辞帰、後に編修官に復し将仕郎、応奉翰林文字、太常博士を歴任。母の喪に累ねて起復されるも固辞し、至大3年(1310年)太常博士承事郎に復す。4年(1311年)承直郎翰林待制。皇慶元年(1312年)国子司業、延祐3年(1316年)奉政大夫国子祭酒として教育に尽力。
- 7年(1320年)翰林直学士、至治2年(1322年)翰林侍講学士知制誥同修国史、3年(1323年)告老、泰定3年(1326年)73歳で没した。号は果斎、性格が優游で決断に乏しかったことから自らを励ました。文集が家に伝わる。