元史卷一百六十三 列傳第五十 趙炳

出自と若年期

  • 字彦明、恵州灤陽の人。父宏は国初の征行兵馬都元帥。炳は幼くして父母を失い従兄に養われ、飢饉の年に盗賊に遭った際、兄が自ら縛につこうとしたのを12歳の炳が身代わりを申し出て盗賊を驚かせ免れた逸話がある。弱冠で勲閥の子として世祖の潜邸に仕え、撫州の城邑を刷新した。
  • 己未(1259年)、王師の宋討伐の際、北方の警報で徴兵徴財が続き燕薊が騒然とした際、王師の帰還時に炳が事情を訴え、徴発した兵と財物を民に返させた。

地方統治と剛直な法執行

  • 中統元年(1260年)、北京宣撫司事を判す。北京は遼東・蕃夷が入り混じり治めにくい地とされたが、宣撫使楊果は炳の着任を喜んだ。3年(1262年)北京鷹坊等の丁を徴兵し賦を免除。李璮が済南で叛した際、包囲軍の一翼を担い、俘虜は徒党でなければ助命した。
  • 刑部侍郎兼中書省断事官として、龍舟に妓を乗せた者を法に照らして処断したところ、その子が皇帝の車駕を犯して訴え、帝は一時怒ったが後に「炳の用法は峻烈だが情に流されぬ者」と評価した。済南の妖民の乱では首悪のみを誅し、飢饉には倉を発して賑済してから朝廷に報告した。遼東提刑按察使に転じ、赴任前から豪猾が姿を消したという。

安西王府との関係と冤死

  • 至元9年(1272年)、京兆路総管兼府尹に任じられ皇子安西王の秦開府の官室造営を任された。王府の吏卒の横暴を糾し、王は「以後は自ら処断せよ」と全権を委ねた。解州塩賦の積年の逋債の免除を進言し民を救った。
  • 王の北伐に伴う一年分の京兆賦税充当を「逋課を軍用に充て歳賦は貸すべき」と諫めて民力を保った。至元14年(1277年)鎮国上将軍安西王相。六盤山の反乱を鎮圧し、王の北伐戦功を賞された。
  • 至元16年(1279年)入見し帝から関中の民情を問われ、王薨去後に運使郭琮・郎中郭叔雲が権柄を弄び不法を働いていることを報告。帝は驚き喜んで炳を中奉大夫安西王相兼陝西五路西蜀四川課程屯田事とし、按察のため派遣した。
  • 郭琮は嗣王の名を偽って炳の罪をでっちあげ、妻子を投獄し崆峒山に幽閉。子仁栄の訴えで帝は近侍を急行させ炳を救おうとしたが、郭琮の一味が使者を酒で足止めし先に平涼獄中で炳を毒殺させた。享年59。帝は「良臣を失った」と嘆き、郭琮ら百余人を捕らえて事情を悉く明らかにし、子仁栄に手ずから仇を討たせた。仁栄は「奪った財は民のものゆえ受け取らぬ」と拒んだという。帝は鈔二万二千五百緡を治喪費として特別に下賜し、6月に炳の冤罪を雪ぎ中書左丞を追贈、諡は忠愍とした。子6人のうち仁栄は中書平章政事に至った。