元史卷一百六十三 列傳第五十 烏克遜澤

出自と初期の従軍

  • 字潤甫、臨潢の人。その先は女真烏克遜部で氏とした。祖の壁は金の明威将軍資用庫使として金主の汴京遷都に従い、汴梁陥落後は大名に移った。父仲は乱世を憤り酒に佯狂して自らを晦ましたが、澤の教育には特に厳しかった。
  • 澤は剛毅な性格で読書は大意を求め些末な章句に拘らず、才幹に優れた。世祖の江南攻略の際、鈔輸送で淮南に赴いた際、丞相アジュに見出され淮東大都督府掾に補せられた。

福建・広東平定と戦後統治

  • 至元14年(1277年)、元帥ソド(索多)の福建進軍に随行し提控案牘となる。宋の広王が福州で改元し海に逃れた後、その将張世傑らが各地で抵抗を続ける中、澤は「閩広に拠る敵を後回しにして浙右を優先するのは策として不善」と献策し、閩関を八戦して南剣に至った。
  • 興化攻略後、ソドが民の反覆を怒って屠城を命じようとした際、繰り返し諫めて止めさせ、代わりに「泉州の民心はまだ固まっていない、興化の遺民を泉州へ逃がして動揺させれば戦わずして泉州を守れる」と献策し、実際に南門を開いて民を去らせたことで張世傑は興化陥落を知り泉州の包囲を解いた。潮州攻略でも外の壁塁を先に落とすことで陥落させた。
  • 福建行中書省の都事として興化軍の知事となり、善謀を賞されて金織文衣を賜った。興化路総管に転じ、戦乱で白骨が野に散る惨状を掩埋させ、流民の子を慈幼曹に籍して養育。悪年少が名籍を偽って軍功を求める風潮を糾し、贪暴を厳しく戢めた。陳瓚に従った者への連座を「国家の至仁は首謀のみを誅す」として止めさせた。籍民を兵籍に編入する議も「民に他心を生じさせる」として阻止し、学校を興し鄉飲酒礼を行い、常衮とともに肖像を学宮に祀られた。

地方官としての晩年の治績

  • 至元21年(1284年)永州路判官。湖広平章政事アスムルの貪虐な誅求を、使者を厚遇しつつ利害を説いて緩めさせた。宝慶・武崗の盗賊を討伐し首悪31人のみを誅し他は減死とした。
  • 至元26年(1289年)、丞相僧格の考校銭穀の政策への民の困窮を見て自ら上計し行省に赴き、アスムルの怒りを買い拘禁されたが、翌年僧格失脚とともに釈放された。
  • 至元29年(1292年)、広西両江道宣慰副使として海南黎人の平定に従軍、広南西道宣慰副使を経て広西の司規三十二章を作り教化に努めた。廐を省き民力を軽減、飢饉には田租を免除し官粟三千五百石を発して賑済、専擅の罪を問われることなく行省平章ハラハスに誠実さを認められた。
  • 邕管徼外の蛮の侵寇に対し、要害を巡視して屯を置き治水灌漑で稲田を開き軍儲とした。海北元帥蘇察罕の贓利事件を摘発し掠奪された民四百八十二口・牛馬・金銀器を悉く返還させ、御史台から「大局を心得た使者」と評された。海北海南廉訪使に抜擢。
  • 雷州で潮汐被害の田を陂塘に改める灌漑工事を行い、民が歌でその恵みを称えた。福建廉訪使として母の高齢を理由に帰養を願い出、母の喪に服す妻杜氏が13日食を断つほどの哀慟を経て自らも哀毁で没した。子良禎は中書右丞に至り功名を全うした。