元史卷一百六十三 列傳第五十 程思亷

出自と初期の官歴

  • 字介甫、その先は洛陽の人、元魏の頃に豪右として雲中に移り東勝州に居を構えた。父恒は国初、沿辺権榷規運使・解州塩使を歴任。思亷は太保劉秉忠の推薦で裕宗の潜邸に給事し謹愿で聞こえ、樞密院監印となる。
  • 平章政事ハタン(哈坦)が河南行省となった際、都事となり丞相史天澤に重んじられた。襄樊攻略に際して転餉築城の任にあたり、民との争いを避けるため輸送路を分けさせるなどの配慮を見せ、大雨で野積みの穀物が濡れる中でも冷静に「敵が近く夜半の騒動を避けるための対処」と説明し人々を感服させた。

監察御史としての剛直

  • 至元12年(1275年)、淇州同知から東平路判官を経て監察御史となり、権臣アハマドを弾劾して投獄されるも動じず害を免れた。河北河南道按察副使のとき、饑饉下の徴税強行を「民が既に堪えられない」と自らの判断で停止させた。
  • 至元20年(1283年)、河北の大飢饉で流民が黄河を渡ろうとするのを朝廷が阻止しようとした際「民は食を求めるだけ、天下一家、河北も河南も同じ我が民」として渡河を許し、罪に問われても悔いないと述べた。衛輝・懐孟の水害では堤防を修築し野宿して督役し被害を防いだ。
  • 母の喪に服した後、雲南行御史台の御史中丞として起復。蛮夷酋長の傲慢な態度を見抜き、禍福を明示して威服させた。雲南の学校教育を振興し、初めて学問を修める者が現れた。成宗即位後、河東山西廉訪使として太原の駝馬飼育負担や平陽の遠方輸送の重税を軽減させた。

人物評と最晩年

  • 旧法の弊で決事の権限が曹吏に握られていたのを自ら判牘し正した。剛正で言事に鋭く、儲君の早期確立、賢俊の登用、車服の弁別、封諡の議、養軍力、律令の整備など急務を提言し続けた。
  • 交友に篤く、病死の弔問に数百里を厭わず赴き、遺族の生計を取り計らった。人物推薦を好み、名を売る行為との批判に「好名を避ければ人は善を行わなくなる」と答えた。62歳で没し、諡は敬粛。