出自と青年期
- 字仲実、通州潞県の人。5歳で父を失う。父は生前地方官として獄事を扱い苛酷を用いず、多くの人を助けた功徳により家門の繁栄を予言された。
- 凶作の年、家に粟わずか五升のみだったが母が蓬稗をつき藜莧を炊いて養った。徳輝は貧しさの中でも学問を志し、16歳で豊州の監酒官となり得た俸禄で筆札・書物を買い集め夜も読書に励んだ。
- 世祖(クビライ)がまだ潜藩(即位前)にあった頃、劉秉忠の推薦により裕宗(皇太子)の講読に侍し、竇黙らとともに召し出された。
軍需の差配と地方統治
- 癸丑(1253年)、憲宗が宗親に京兆を分封し世祖の潜藩に隷させた際、財政に長けた廷臣として布都訥とともに使者に選ばれた。汪徳臣が利州に駐屯し四川侵攻の要衝を扼していたため、徳輝は民を募って綿竹に粟を納めさせ、銭幣を散じ塩引を給し、興元から嘉陵まで水運で兵糧を輸送し、一年足らずで軍糧を充足させた。これが蜀平定の基盤となった。
- 中統元年(1260年)、燕京宣撫使となる。燕京には偽鈔を造り死党を結んで人を殺す悪党が多かったが、これを悉く捕らえて誅し治安を回復した。ただし中書に事を諮らないことが多く平章王文統の意に逆らい辞職。中統3年(1262年)、文統が謀反で誅されると山西宣慰使に起用され、権勢の家が民を奴隷として籍していたものを調べて千人近くを解放し復業させた。
- 至元元年(1264年)、宣慰司を廃されて太原路総管となる。潜藩以来の旧臣で二千石の地方官に出た者がいなかったため、太原統治が難しいとして徳輝が任じられた。学校を興し孝節を表彰し農桑を勧め、社倉を立て度量衡を統一するなど善政を行い、嘉禾瑞麦が六度も現れたという。
- 至元5年(1268年)、右三部尚書に召される。財産を争い兄の子を失った訴訟で、叔父の犯行と断じ、権貴の請託にも屈せず罪状を明らかにした。
- 至元7年(1270年)、帝が蝗害・旱害を憂い徳輝に山西河東の録囚を命じた。懐仁で発見された木偶による厭勝の疑いをかけられた妻の冤罪を見抜き、真犯人が夫の愛妾であることを暴いて処断した。
安西王相としての蜀経略と晩年
- 皇子安西王が関中を鎮めるにあたり徳輝を輔佐に招き、安西王相に転じる。涇水沿いの牧地数千頃を開墾し、貧民二千家を移して屯田させた。
- 至元12年(1275年)、王相として蜀を撫するよう命じられる。重慶がなお抵抗を続けており、朝廷は東西両川に行枢密院を置き三万の兵で包囲した。徳輝は成都で両府の争いを戒め、宋はすでに滅びたのに重慶が降らないのは将らが利を貪り民を虐げることを恐れているためだと説き、使者の失策を批判した。ほどなく瀘州が反し重慶の包囲は瓦解、徳輝は瀘州へ退いて守った。
- 至元14年(1277年)、西川行枢密院副使を兼ね、瀘州を回復。15年(1278年)、重慶を再度包囲し1か月余りで陥落させ、紹慶・南平・夔・思・播などの諸山寨も降った。合州の守将張珏に、宋室はすでに滅び忠を尽くす対象を失っていると説く書を送り、後に合州から捕らえた間諜を釈放して帰し、将の王立にも同様に書を送って降伏を勧めた。王立は数百の兵を率いて降り、蜀は平定された。
- 至元17年(1280年)、安西行省左丞となる。西南夷の羅施鬼国が再叛した際、三道三万の兵が向かうところを使者を送って進軍を止めさせ、酋長阿察を説得して降伏させた。阿察は「合州の李公が我らを救ってくれた」と感激して自ら播州に赴き帰順を誓った。鬼国は順元路に改められ、酋長が宣撫使に任じられた。
- 後に鬼国の馬数千頭を受け取ったと讒言する者があったが、帝は「この者の廉潔は朕がよく知るところ、羊一頭さえ濫りに受け取らぬ」と信を示した。徳輝は63歳で没し、蛮夷は肉親のように哭泣し、合州安撫使王立は喪服で吏民を率いて拝哭し、興元・播州の安撫使は廟を建てて祀った。