出自と幼少期
- 字鵬挙、琅琊臨沂の人。父琮は金の盱眙守将だったが、金人に疑われ兵権を奪われ許州に移された後、河陰の守備を命じられ家族を許州に残した。雄飛は幼くして母を失い、父の妾李氏に養われる。国兵が許州を屠った際、工匠のみが助命され、田という父の旧吏が雄飛と李氏を家人と偽って保護し、朔方へ移住させた。
- 10歳で霍州に至り、李氏が自分を連れて逃げるのを躊躇うのを見て自ら覚悟を示し、共に潞州に移り住んだ。成長して王宝英に学び、金滅亡後は父の行方を求めて澤潞を十余年放浪し、僧舎に寄食した末、燕に落ち着いた。数年で国語(モンゴル語)や諸部の言語に通じた。
世祖への出仕と諫言
- 至元2年(1265年)、亷希憲の推薦で世祖に召見され、時務を論じて同知平陽路転運司事に任じられ弊害を除いた。世祖が処士羅英に人材を問うと「張雄飛は真に公輔の器」と推挙され、駅伝で召され当今の急務を問われると「太子を早く定め人心をつなぐべき」と諫言、帝は寝床から起き上がって称賛した。
- 別の日、江孝卿とともに召見され「今の任職者は多くが不才で政事が廃弛している」と帝が嘆くと、雄飛は御史台の設置を提案。帝は喜び御史台を立て、塔斉爾を御史大夫、雄飛を侍御史とした。帝は「臺官は直言が職分、私に忌憚することはない」と励ました。
- 参議枢密院事の費正寅の罪を追及し、権臣アハマドの罪状を糾弾して同僚に「制国用司の時にはお前もそこにいたはずだ」と論破。秦長卿・劉仲沢がアハマドに逆らって投獄された際も雄飛は「無実の者を殺して大官を得ることはしない」と拒み、アハマドの怒りを買い澧州安撫使に左遷された。
地方官としての治績と最晩年
- 澧州では初め民心が動揺していたが、徳教を布いて安んじた。豪商の匿税・傷害事件を厳しく処断し、宋の弊政を改める姿勢を貫いた。飢饉で富家の倉を襲った民を「強盗ではなく食を求めた末の窮迫」として寛大に扱い、百余人を救った。溪洞の猺人には威徳を示して帰服させた。
- 荊湖北道宣慰使のとき、常徳の富民の反乱疑惑を「訴えた者こそ怨恨がある」と見抜いて武力鎮圧を止め、後に事実その通りと判明した。荊湖行省アルハヤが降民三千八百戸を私に奴隷とし租賦を課していたのを朝廷に訴えて民籍に戻させた。
- 至元16年(1279年)、御史中丞行御史台事。アハマドの子フスンに逆らったことで一時陝西按察使に転出させられかけたがアハマド死後に参知政事に。アハマドの長年の売官鬻獄の弊風を正すため自ら一階降格して倣った。フスンの罪を糾問した際、宰執を脅す発言を逆手に取って認めさせ服罪させた。
- 至元21年(1284年)、大赦の議に対し「赦の無き国は刑が平らかである」と諫めてこれを止めさせた。剛直廉慎で知られ、帝から「真に廉なる者」と称され銀二千五百両・鈔二千五百貫、さらに金五十両と金の酒器を賜ったが封をしたまま蔵に留め置いた。
- 後にアハマドの残党が雄飛の失脚に乗じて賜物を取り戻そうとし、一時矯詔で奪われたが、裕宗が丞相安図に「上が張雄飛に賜ったのはその廉潔を旌するためだ、小人に欺かれるな」と正した。盧世栄が財利で用いられた際、雄飛は他の執政とともに罷免された。至元23年(1286年)、燕南湖北道宣慰使として再起し、任地で没した。子五人。師野が東宮に宿衛していた際、雄飛は自分が執政である間は子に官職を得させないと諫めて辞退させた。