元史卷一百六十 列傳第四十七 徐世隆

徐世隆、字は威卿。陳州西華の人(?–享年80)。金末の進士で、元初は東平幕府を経て世祖に登用され、宣撫使・太常卿・吏部尚書・按察使・翰林学士などを歴任した儒臣。朝儀・廟制の整備に関わり、日本征伐に反対するなど直言した。

年表(15件)

東平幕府から朝廷の重臣へ

  • 徐世隆、字は威卿。陳州西華の人である。元服して金の正大四年(1227年)進士第に登り、県令に招かれたが、父は世隆に「そなたは年若く学がまだ至っていない。読書して往事を多く識り智識を益すべきである。三十で仕えても遅くない」と戒めた。世隆は官を辞して益々学に篤くなった。
  • 壬辰(1232年)年、父が没し、癸巳(1233年)年、世隆は母を奉じて北に河を渡り、嚴實が招いて東平幕府で掌書記とした。世隆は實に寒素の者を収養することを勧め、一時の名士の多くがこれに帰した。憲宗即位後、拘𣙜燕京路課税官に任じようとされたが、世隆は固辞した。
  • 壬子(1252年)年、世祖が潜邸にあって日月山で召見した際、雲南遠征を図っており世隆に問うと「孟子に『殺すことを嗜まぬ者が天下を一つにできる』とあります。人の君主たる者は殺すことを嗜まなければ天下を定められます。まして小さな西南夷ならなおさらです」と答え、世祖は「まさに卿の言葉のとおりだ。私の事は成るだろう」と言った。實は当時金の太常登歌楽を得ており、世祖は使いを遣わしてこれを取らせ、世隆にこれを典領して行かせた。会見すると世祖はこれを留めようとしたが、世隆は母の老いを理由に辞した。實の子忠濟は世隆を東平行臺経歴として、これにより忠濟の興学養士を益々助けた。
  • 中統元年(1260年)、燕京等路宣撫使に抜擢され、世隆は新民善俗を務めとした。中書省が諸路に禁衛の痩せ馬を数万頭単位で養わせる檄を出し、その飼料と器物を事前に用意させようとした際、世隆は「国馬は北方で牧すもので、これまで南で飼われたことはない。上が新たに天下に臨まれ、京畿は根本の地である。煩わしく擾すようなことは必ずされないだろう。馬は来ないだろう」と言った。吏が「これは軍需だ。責任を軽く見るな」と言うと、世隆は「責めは私が負う」と言い、備えをしなかった。果たして馬は来なかった。清・滄の塩課は以前の政では額に足りなかったが、世隆はこれを綜覈して増羨を得、銀三十鋌を賜った。
  • 中統二年(1261年)、順天に移り治めたが、その年は飢饉に見舞われ、世隆は倉を発いて貸し、多くの人を救った。中統三年(1262年)、宣撫司が罷められ世隆は東平に戻り、宮縣大楽・文武二舞を増して旧工に教習させ大祀に備えることを請い、詔が可とされ、世隆に太常卿を除してこれを掌らせ、本路の学校事を提挙することを兼ねさせた。
  • 中統四年(1263年)、世祖が堯舜禹湯の為君の道を問うと、世隆は書に記された帝王の事を取って対とし、帝は喜んで「そなたは朕のために直解し進読せよ。私はこれを聴こう」と言い、書が成ると帝は翰林承旨の安藏に訳させて進めさせた。
  • 至元元年(1264年)、翰林侍講学士兼太常卿に遷り、朝廷の大政は諮訪してから行われ、詔命典冊の多くはその手から出た。世隆は「陛下は中国に帝たり、中国の事を行うべきです。事の大なるものはまず祭祀にあります。祭祀には廟がなければならず、有司に時を勅して興建させることを願います」と奏し、これに従い、年を跨いで廟が成り、祖宗の神御を迎えて太室に安んじ大饗の礼が成った。帝は喜んで賞賜が優渥であった。まもなく戸部侍郎を兼ね、三省を立てる議を詔されて内外官制を定めて上奏した。
  • 当時、朝儀がまだ立てられていなかったため、世隆は「今、四海一家、万国が会同する時代であり、朝廷の礼を粛にしないわけにはいきません。百官の朝会の儀を定めるべきです」と奏し、これに従われた。至元七年(1270年)、吏部尚書に遷り、世隆は銓選に守るべき法がないことを理由に「選曹八議」を撰した。至元九年(1272年)、外に補されることを乞い、虎符を佩びて東昌路総管となり、郡に至ると徳をもって下を率いることを専らにし鞭箠を用いず、吏は欺くに忍びず民もまた化服し、一年で政が成り、郡人はこれを頌えた。
  • 至元十四年(1277年)、山東提刑按察使として起用された。当時、妖言による獄事で担当官が数百人を逮捕したが、世隆はその大部分を詿誤(連座の誤解)として悉く縦遣させた。至元十五年(1278年)、淮東に移った。宋将許瓊の家童が瓊が官庫の財を匿していると告げ、有司はその妻子を繋いでこれを徴収しようとしたが、世隆は「瓊が匿していたのは故宋の物であり、今の盗官財者と同列に論じることはできない」と言い、同僚は従わなかったが、世隆は独り章を奉って弁明し行臺はこれを是とし、釈して問わなかった。折しも日本征伐が議されると、世隆は諌止する疏を上げ言葉は頗る剴切であったが、当路者はすぐには奏せず、まもなく帝の意が悟りその事は自ずと止んだ。
  • 至元十七年(1280年)、翰林学士に召され、また集賢学士に召されたが皆病を理由に辞した。世隆は儀観が魁昻で量度が宏博、慈祥楽易で人が忤らっても愠色を見せず、賔客を喜び施与を楽しみ、前代の典故に明るく律令に精通し疑獄を決するのを善くした。至元二十二年(1285年)、安圖が再び入相した際、世隆は老いてなお用いるべきだと奏し、使いを遣わして召したが、なお老病を理由に辞し、便宜九事を附奏して田十頃を賜った。年八十のとき卒した。瀛洲集百巻、文集若干巻を著した。