東平教育界の名士
- 李謙、字は受益。鄆の東阿の人である。祖の元は医で名を著し、父の唐佐は性質恬退で仕進を好まなかった。謙は幼くして成人の風があり、就学するや日に数千言を記し、賦を作って評判があり、徐世隆・孟祺・閻復と並び称されたが、謙が首位であった。東平府の教授となると生徒が四方から集まり、累官して萬戸府経歴となり、再び東平を教授した。以前、教授には俸禄がなく郡は儒戸に銀百両を課して束修に備えさせていたが、謙は「私の家は幸い甚だ貧しいわけではない。どうして貨を集めて自らを富ませようか」と辞退した。
- 翰林学士王磐が謙の名を朝廷に聞かせ、応奉翰林文字に召されると、一時の制誥の多くはその手から出た。至元十五年(1278年)、待制に陞り上都への扈駕に賜物として銀壺・籐枕を得た。至元十八年(1281年)、直学士に陞り太子左諭徳として裕宗に東宮で侍り、正心・睦親・崇儉・幾諌・戢兵・親賢・尚文・定律・正名・革弊の十事を陳べた。
- 裕宗が崩じると、世祖は再び成宗を潜邸で傅育させるにあたり、行く先々に謙を随わせ、侍読学士に転じた。世祖は深くこれを器重し、かつて便殿に坐を賜り群臣に酒を飲ませた際「卿は酒を飲まないと聞くが、朕のために強いて飲めるか」と言い、蒲萄酒一鍾を賜って「これは極めて人を酔わせる。そなたが耐えられないことを恐れる」と言い、三人の近侍に扶掖させて外に出させた。
- 至元二十六年(1289年)、足の病により辞して帰った。至元三十一年(1294年)、成宗即位に伴い駅で上都に召され、会見すると「朕はそなたに病があると知っているが、京師は家からそう遠くなく良医も多いので病を癒すことができよう。かつてそなたと国政を謀ったが、それ以外にそなたを煩わせることはない」と労い、学士に陞った。元貞初年(1295年頃)、病を理由に家に帰った。大徳六年(1302年)、翰林承旨に召され、年七十一で致仕を乞うた。大徳九年(1305年)、また大都に召され、翌年に半俸を給された。仁宗が皇太子となった時、太子少傅に徴されたが謙は力めて辞した。
- 仁宗即位後、十六人を召し、謙はその筆頭であった。病を押して帝に行在に見え、九事を疏言した。その大略は「心術を正して百官を正し、孝治を崇びて天下に先んじ、賢能を選んで輔相の位に居らせ、視聴を広くして上下の情を通じさせ、貧乏を恤んで邦家の本を重んじ、農桑を課して衣食の源を豊かにし、学校を興して人材の路を広くし、律令を頒って民が犯さぬようにし、士卒を練って安きに居て危を慮り、紀綱を振肅し内外臺憲の官を糾察し、清望が著しく治体に深く明らかで苛細を事としない者を選ぶべきです」というものであり、帝はこれを嘉納した。集賢大学士榮祿大夫に遷り致仕し、銀百五十両・金織幣及び帛各三疋を加賜された。家に帰って卒した。享年七十九。謙の文章は醇厚で古風があり浮巧を尚ばず、学者はこれを宗とした。号は野齋先生。子の偘は官が大名路総管に至った。