元史卷一百六十 列傳第四十七 王思㢘

帝の側近としての諫言

  • 王思㢘、字は仲常。真定獲鹿の人である。幼くして太原の元好問に師事し、元服後は張徳耀が河東を宣撫した際に掌書記として招かれ、再び辞して帰った。至元十年(1273年)、董文忠の薦めにより世祖が文忠に「そなたはどうして王思㢘の賢を知ったのか」と問うと「郷人の善なる者が称えているからです」と答え、召見して符寳局掌書を授かった。至元十三年(1276年)、姚樞の推薦により昭文館待制となり、奉訓大夫符寳局直長に遷り、至元十四年(1277年)翰林待制に改まった。
  • かつて通鑑を進読した際、唐太宗が魏徴を殺そうとした話や長孫皇后が諫めた話に至ると、帝は内官に命じて皇后の閤に引き入れさせ、その説を敷衍させた。皇后は「これは誠に宸衷(帝の心)に益がある。善言を選んで進講せよ。決して瀆した言葉で上の聴を煩わせてはならない」と言った。侍読のたびに、帝は御史大夫の伊蘇特穆爾、太師の伊徹察喇、御史中丞の色埓黙、翰林学士承旨の都哩徹爾らに聴受させた。
  • 帝が延春閣で群臣に大いに賚(賜物)を行った際、十人ずつ列を成して進ませたが、思㢘は偶々衛士の列に交ざっていた。帝は董文忠を責めて「思㢘は儒臣である。どうして衛士の列に入れるのか」と言った。至元十八年(1281年)、中順大夫典瑞少監に進んだ。
  • 至元十九年(1282年)、帝が白海に行幸した際、千戸王著が奸臣阿哈瑪特を大都で矯って殺し、その事が樞密副使張易にまで及んだ。帝は思㢘を行殿に召し左右を退けて「張易は反乱したと知っていたか」と問うと「詳しくは知りません」と答えた。帝が「反した、反したのに、なぜ詳しく知らないのか」と言うと、思㢘は徐に「僭号改元を反と言い、他国に亡入することを叛と言い、山林に群聚し民物を賊害することを乱と言います。張易の事は臣は実に詳しくは分かりません」と奏した。帝は「朕は即位して以来、李璮のような不臣の者はあったが、私が漢の高帝や趙の太祖のように急に帝位に上った者と同じだと言うのか」と言った。思㢘は「陛下は神聖であり天縦の資であられ、前代の君も比べるに足りません」と答えると、帝は嘆じて「朕は以前、竇黙に問えばその応えは響のようであった。それは心と口が食い違わなかったからで、思わずして得られるものだった。今、朕がそなたに問うても、そなたはそうできるか。かつ張易のしたことを張仲謙は知っていたか」と問うた。思㢘は即座に「仲謙は知りません」と答え、帝が「どうしてそれが分かるのか」と問うと「二人は互いに安からぬ仲でしたから、私はそれで知らないと分かるのです」と答えた。
  • 至元二十年(1283年)、太監に陞った。思㢘は儒素をもって進んだため帝の眷注は特に厚く、病にはたびたび御薬を賜り安否を顧問された。扈蹕(従行)の際、乗馬を失うと内厩馬五匹を給された。盗まれた玉帯の代わりに別の玉帯を賜ったこともあった。裕宗が東宮にあった時、思㢘は「殿下の府中には学官を建て、左右近侍を親しく正学にあたらせるべきです。必ず明徳を裨輔できるでしょう」と進言し、裕宗はこれに従った。裕宗はかつて甲第(邸宅)を買って思㢘に賜ろうとしたが、思㢘は固辞した。
  • 至元二十三年(1286年)、嘉議大夫同知大都留守兼少府監事に改まった。藩王の納顔が叛くと帝は親征し、思㢘は留守の叚貞に「藩王が反側するのは地が大きいためです。漢の鼂錯の削地の策は実に良図でした。どうして上にこれを言わないのですか」と密かに言い、貞は帝にこれを見えると、帝は「そなたはどうしてこの言葉を発することができたのか」と問い、貞は思㢘のことを答え、帝はこれを嘉した。
  • 至元二十九年(1292年)、正議大夫樞密院判官に遷った。大徳元年(1297年)、成宗即位により中奉大夫翰林学士に遷り、なお樞密院判官を兼ね、病により帰った。大徳三年(1299年)、起こされて工部尚書となり、征東行省参知政事を拝し、大徳七年(1303年)、大名路を総管し、大徳八年(1304年)、集賢学士に召された。大徳十一年(1307年)、正奉大夫太子賔客を授かり、仁宗即位後、翰林学士承旨資善大夫として致仕した。延祐七年(1320年)、卒した。享年八十三。翰林学士承旨資徳大夫河南江北等處行中書省右丞上䕶軍を贈られ、恒山郡公に追封され、諡は文恭。