従軍参謀として活躍
- 孟祺、字は徳卿。宿州苻離の人である。代々財に富み郷里に雄たり、父の仁は業を儒とし節行があった。壬辰(1232年)年、北に渡って済州魚臺に寓し、州帥の石天禄がこれを礼し詳議府事を兼ねさせて招いた。祺は幼くして敏悟で騎射に長け早くから学問を志し、父に従って東平に移り住んだ時、嚴實が学校を興し生徒を招いて考試法を立てていたので、祺は試を受けて上選に登り掌書記に招かれ、亷希憲・宋子貞は皆これを器遇して朝廷に聞かせ、國史院編修官に抜擢され、従事郎応奉翰林文字兼太常博士に遷り、一時の典冊の多くはその手から出た。
- 至元七年(1270年)、節を持して高麗に使いし帰ると、旨に称い承事郎山東東西道勧農副使を授けられた。至元十二年(1275年)、丞相巴延が兵を率いて宋を伐つ際、宿望博学で大計を賛画できる者を選んで随行させる詔があり、祺は承直郎行省諮議を授けられ、まもなく郎中に遷り、巴延雅(バヤン)は信任した。軍書が絶えず届く中でも祺は酬応の判断が滞ることなく、師が建康に駐屯すると、巴延は兵事で闕に詣でることが多く、政の大小はすべて祺が執政とともに裁決した。
- 焦山の戦いに至ると、宋軍が下流にいて、祺は「勢いに乗じて速やかに進み彼の気を奪うべきです」と述べ、これに従って大破した。巴延はこれを聞いて喜び「思いがけないことに書生でも兵を知ることこのようだ」と言った。諸将が虜掠を利して臨安に趨ろうと争うと、巴延が計を問い、祺は「宋人の計はただ閩に竄れることだけです。もし兵で迫れば必ず速やかに逃げ、盗が一旦起これば臨安三百年の蓄積が焼き尽くされてしまいます。むしろ計をもって安んじさせるべきです。ちょうど果実を採るように、しばらく時日を待つのがよいでしょう」と答えた。巴延は「そなたの言葉はまさに私の意に合う」と言い、書を草して人を臨安に遣わして安慰させた。宋はこれにより閩に議を移さなくなった。
- 先んじて宋の降表は「姪」「皇帝」を称し、しばしば拒まれて受け入れられなかったため、祺は自ら使いとなることを請い降表を徴した。三省で宋の相と会い、夜三鼓に及んでも議が決しないと、祺は正色して「国勢はここに至って何を待つことがあろうか」と言い、議はついに定まり書が成った。宋の謝太后は内批をもって国璽を用い、これを携えて出た。再び内殿の謝太后から国璽十二枚を取り出させた際、巴延自らこれを親封しようとすると祺はこれを止めて「管鑰にはもとより主る者がいる。親しくすべきことではない。もし一つでも謹まないことがあれば、後に姦人が妄りに汚名を着せても明らかにできなくなる恐れがある」と言い、ついに止めさせた。
- 江南が平定されると、巴延は祺の前後の功が多いことを奏し、重任に堪えるとも述べ、詔があって少中大夫嘉興路総管に陞り虎符を佩びた。祺は至ると興学を第一の務めとし規制を創立したが、まもなく官を離れて東平に帰った。至元十八年(1281年)、太中大夫淛東海右道提刑按察使に抜擢されたが病により赴かず、卒した。享年五十一。宣忠安逺功臣中奉大夫参知政事䕶軍を贈られ、魯郡公に追封され、諡は文襄。子は二人、遵・遹。