元史卷一百六十 列傳第四十七 閻復

東平学出身の重臣

  • 閻復、字は子靖。先祖は平陽和州の人。祖の衍は金に仕え王事に殉じ、父の忠は山東の高唐に兵を避け家を構えた。復が生まれる際、奇光が室を照らしたという。性質は簡重で丰儀が美しく、七歳で読書し頴悟は人に絶していた。元服して東平の学に入り名儒康&KR0008;に師事した。嚴實が東平行臺を領して諸生を招いて進士業を修めさせ、元好問を迎えてその文を校試させ、選ばれた四人のうち復が首位で、徐琰・李謙・孟祺がこれに次いだ。
  • 己未(1259年)年、行臺で掌書記を始め御史掾に抜擢された。至元八年(1271年)、王磐の薦めで翰林応奉となり、才により選ばれて会同館副使兼接伴使となり、上京への扈駕に応制詩二篇を賦して規諷の意を寓した。世祖は和爾果斯を顧みて「これほどの才があるのに、どうして用いないでいられようか」と言った。
  • 至元十二年(1275年)、翰林修撰に陞り、至元十四年(1277年)、河北河南道提刑按察司事を僉し奉訓大夫の階を得た。至元十六年(1279年)、翰林直学士となり、州郡の校官の多くが職を果たしていないことから銓選の法を定めることを建議した。至元十九年(1282年)、侍講学士に陞り、翌年集賢侍講学士に改まり会同館事を同領した。至元二十三年(1286年)、翰林学士に陞り、帝はしばしば榻前に召して面諭し詔旨を具草して進めさせ、帝はこれを称善した。
  • 至元二十八年(1291年)、尚書省が罷められ中書省が再び立てられると、帝は精を励まし治を図り、宰相の選任を急ぎ、ある日、便殿に入れて「朕はそなたに執政を命じたいがどうか」と諭したが、復はしばしば謝して任に堪えないと述べた。帝は侍臣に「書生は義理を識り謙譲を存する。これでよい。強いてはならない」と言った。
  • 御史臺が提刑按察司を肅政廉訪司に改めた際、まず復に浙西道肅政廉訪使を命じた。先んじて、姦臣僧格が国政を執っていた頃、翰林に増格輔政碑を撰させる旨があり、僧格が敗れると詔があってその碑を踣させ(打ち倒す)、復らもこれに連坐して官を免ぜられた。
  • 至元三十一年(1294年)、成宗即位により旧臣として召され朝に入り、重錦・玉環・白金を賜り、集賢学士正議大夫を除された。元貞元年(1295年)、上疏して京師にまず宣聖廟学を建て釈奠雅楽を定め用いることを言い、これに従われた。また曲阜の守塚戸が先頃有司により民籍に併入されたことを言い、これを復すべきことを述べ、その後、詔があって孔林灑掃二十八戸、祀田五千畝を賜り、これを復させたのは復の請いによるものであった。
  • 元貞三年(1297年)、星変により再び上疏して「律令を定め、封贈を頒ち、俸給を増して内外官を通調すべきです」と述べ、また「古は刑不上大夫(刑は大夫に及ばず)でしたが、今は郡守が租の徴収により杖を受けており、これは廉隅を厲ます所以ではありません。江南の公田は租が重く、減じて貧民に貸すべきです」と述べ、後に多く採用された。
  • 大徳元年(1297年)、再び翰林学士に遷り、大徳二年(1298年)、楮幣一万貫を賜った。大徳四年(1300年)、帝は榻前に召して密かに「中書の庶務は繁重で、左相はその人を得るのが難しい。卿は朕のために知る者を挙げよ」と諭し、復は哈喇哈斯を対とした。帝は大いに喜び使いを遣わして召し入れ相とした。復もまた翰林学士承旨階正奉大夫を拝した。
  • 大徳十一年(1307年)春、武宗が即位すると、復はまず名器を惜しみ賞罰を明らかにし人材を択ぶという三事を陳べ、いずれも切実であった。まもなく榮祿大夫に階を進め遥授平章政事とされたが、復は力めて辞退し、上疏して骸骨を乞い、詔がこの請いに従い、半俸を終身給された。仁宗が東宮にあった時、重錦を賜り公卿に都門外で道を祖(見送り)させ、即位すると使いを遣わして復を召したが、復は病を理由に辞した。皇慶元年(1312年)三月、卒した。享年七十七。諡は文康。靖軒集五十巻がある。