元史卷一百五十八 列傳第四十五 姚樞

姚樞、字は公茂。柳城の人で洛陽に移り住んだ。世祖の潜邸に召され治国の大綱八目・救時の三十条を献策し、大理征討では不殺の令を実現させるなど、元初の制度整備と仁政の理念を支えた儒臣。許衡・竇黙とも学問上深い交わりがあった。至元十七年、七十八歳で没した。

年表(10件)

出自と初期の経歴

  • 姚樞、字は公茂。栁城の人で、のちに洛陽に移った。若くして学に励み、内翰の宋九嘉はその王佐の器量を見抜き、楊惟中とともに太宗に謁見させた。乙未(1235年)年、南伐に際して詔により楊惟中に従って軍中で儒・道・釋・医・卜の士を求めさせられた。
  • 棗陽を破った際、主将が住民を悉く生き埋めにしようとしたが、樞は詔書の意にあらずと力弁し、数人を助けて篁竹の中に逃れさせ死を免れさせた。徳安では名儒趙復を得て、初めて程頤・朱熹の書を得た。
  • 辛丑(1241年)年、金符を賜り燕京行臺郎中となった。当時、伊囉斡齊の行臺はもっぱら賄賂を事としており、幕長として樞にも分け前が及んだが、樞は一切これを拒絶し、官を棄てて去った。家族を携えて輝州に来て、家廟とは別に一室を作り、孔子と宋儒周惇頤らの像を奉り、諸経を刋行して学者に恵み、読書と鳴琴で一生を終えるかのようであった。当時許衡は魏におり、輝に来て程朱の注釈書を写して帰り、門人に「これまで授受してきたものはすべて誤りで、今初めて進学の順序を聞いた」と語った。やがて一家を挙げて樞のもとに身を寄せた。

世祖への献策

  • 世祖が潜邸にあったとき、趙璧を遣わして樞を召した。樞が至ると世祖は大いに喜び、賓客の礼で遇し、治道を尋ねた。樞は数千言の書を著し、まず二帝三王の道による治国平天下の大経を陳べ、これを八目にまとめた。修身・力学・尊賢・親親・畏天・愛民・好善・逺佞である。次いで救時の弊を正す三十条を挙げた。省部を立てて政令を一元化すること、才行ある者を挙用し逸遺を挙げること、銓選を慎み職員を汰すること(世爵を専らにしない)、俸禄を班して贓穢を塞ぎ公道を開くこと、法律を定め刑獄を審らかにし生殺の権を朝に収め諸侯が専らにできないようにすること、監司を設けて黜陟を明らかにし善良と姦窳を挙げること、閣を刺し徴歛して部族が誅求に横暴されないようにすること、駅伝を簡にして州郡が需索に困らないようにすること、学校を脩め経術を崇び節孝を旌して人材育成・風俗厚生・教化の基とすること、農桑を重んじ賦税を寛くし徭役を省き遊惰を禁じて民力を紓すこと、軍政を粛正して田里が擾乱されないようにすること、匱乏を周く鰥寡を恤むこと、屯田を興し辺戍を実にし漕運を通じて京都を廩すこと、債負を停め賈胡が子を母となすことを許さず稱貸の家を破らないようにすること、儲畜を広め常平を復して凶荒に備えること、平準を立てて物価を権り利便を却けて倖塗を塞ぐこと、告訐を杜って訟の原を絶つこと等、その他弛張の方策を細大漏らさず疏陳した。世祖はその才を奇として、動くごとに召し問い、世子に経を授けさせた。

憲宗朝の献言と大理遠征

  • 憲宗即位の後、齊拉衮山の南にある軍民はすべて世祖が総轄せよとの詔が出た。世祖が詔を奉じて群臣を宴し、酒が終わって退出しようとした際、人を遣って樞を留め「先ほど諸臣は皆賀したのに、汝だけが黙っていたのはなぜか」と問うた。樞は「今、天下の土地の広さ、人民の多さ、財賦の豊かさは漢地に勝るものはなく、軍民をことごとく大王が有しています。天子はどうしてこれを黙認するでしょうか。いずれ廷臣がこれを離間し、必ず後悔して奪われることになります。むしろ兵権だけを保持し、供億の需要は有司から取るようにすれば、勢いは順で理は安らかです」と答えた。世祖は「思い至らなかった」と言い、これを憲宗に奏上し、憲宗もこれに従った。
  • 樞はまた汴に屯田経畧司を置いて宋を図ることを請い、衞に都運司を置いて河に粟を転送することを請うた。憲宗が同姓を大封するにあたり、世祖に南京か闗中のいずれかを自ら選ぶよう命じたところ、樞は「南京は河の流れが常ならず、土は薄く水は浅く、塩分の多い土地です。闗中には及びません。ここは上田で古来天府と称される地です」と述べ、世祖は闗中を望むこととなった。
  • 甲寅(1254年)年春、世祖に従って大理を征し、察遜諾爾の地に至った。夜の宴で樞は、宋の太祖が曹彬を遣わして南唐を取った際、一人も殺さず市も乱れなかった故事を語った。翌日、世祖は馬上から「昨日汝が言った曺彬の不殺を、私にもできる、私にもできる」と呼びかけた。樞は馬上で「聖人の心が仁明であることこのようであれば、これは生民の幸い、有国の福です」と賀した。大理城に至ると、樞に帛を裂かせて旗を作らせ、殺すなという令を書いて街々に分けて号令させ、これにより民は互いに保全されることができた。

鉤考局と世祖の苦境

  • 丁巳(1257年)年、樞が入見した際、王府を讒言する者があり、中土の民心を得ていることが問題視された。憲宗は阿勒達爾を遣わして鉤考(厳しい会計検査)を大々的に行わせ、闗中に局を置いて百四十二条の罪状を経略・宣撫の官吏から征商にまで及ぼして集めさせ、局が終わる日に「この罪に入る者は劉黑馬・史天澤の二人のみを別に上聞し、残りはことごとく誅す」とした。世祖はこれを聞いて不快であった。樞は「帝は君であり兄である。大王は皇弟であり臣である。事は争いがたく、遠くにいれば禍を受けるでしょう。むしろ王邸の妃主をすべて朝廷に帰らせ、長く落ち着く計を示せば、疑いは自ずと解けるでしょう」と献策した。世祖が憲宗に会うと皆涙を流し、結局申し立てることなく事は収まり、鉤考局は罷められた。

世祖即位後の施策

  • 世祖即位後、十道の宣撫使を立て、樞を東平に赴かせた。郡には勧農・検察の二人を置いて監督させ、物力を推して賦役を均しくし、鉄官を罷めた。中統二年(1261年)、太子太師を拝命したが、樞は「皇太子はまだ立てられていないのに、どうして先に太師を置けようか」と言って、受けた制書を中書に返した(この事は許衡伝に見える)。大司農に改められた。
  • 樞は次のように奏上した。太宗の代に孔子五十一代の孫元措に衍聖公の襲封を詔したが、元措の死後その子と族人が襲爵を争って潜藩に訴え出た。世祖は当時「まず学に励み、成徳達材となったなら私が官職を与えよう」と述べていた。また曲阜には太常の雅楽があり、憲宗は東平の守臣にその歌工・舞郎・楽器一式を日月山まで運ばせ、帝自らが臨んで観覧し、東平の守臣に員闕を補充させ習練を絶やさぬよう命じた。陛下は聖賢の後裔が詩書に通じず庶民同然であることを憐れみ、洛陽の士楊庸に孔・顔・孟三族の秀才を選んで教えさせるよう命じられた。楊庸を正式に教官に任じ、国家が人材を育て招聘に備える美を成し、王鏞には故実を練習させ提挙礼楽使とし、崩壊させないようにすべきである、と樞は奏し、すべて聴き入れられた。
  • 中書に呼ばれて議事や条格の講定に加わり、帝は「姚樞は台司を辞退したが、朕は大いにこれを嘉する。省中の庶務は一二の老成な者が心を同じくして図り助けることが必要だ。尚書劉肅とともに心を尽くし、包み隠すことのないようにせよ」と勉め論した。条格の修訂が成ると丞相史天澤とともに帝に奏上し、帝は深く嘉納した。
  • 李璮が謀叛した際、帝が「そなたの見立てはどうか」と問うと、樞は「もし璮が我らが北征する隙に乗じ、瀕海より燕を突いて居庸関を閉ざせば、人心を驚かせるであろう。これが上策である。宋と連和し要害に拠って持久し、しばしば辺を騒がせ我らを奔命に疲れさせるのが中策。出兵して済南に拠り、山東の諸侯の応援を待つのは、成擒に過ぎない下策である」と答えた。帝が「賊は今どの策を取るか」と問うと、樞は「下策を取るでしょう」と答えた。以前、帝が天下の人材と王文統について論じた際、樞は「この人は学術が純ならず、遊説をもって諸侯に取り入っている。いずれ必ず反するでしょう」と述べており、この時、文統は璮の一件により誅殺された。
  • 中統四年(1263年)、中書左丞を拝命し、世侯を罷めて牧守を置くことを奏上した。中書の政事が大いに乱れているとの声があり、帝が怒って大臣の罪を測りかねる有様であったとき、樞は上言した。太祖の開創は前古を跨越したが治政を整える暇はなく、その後数朝は官が盛んになり刑が濫れ、民は困窮し財は尽きた。陛下は天資仁聖であり、昔潜邸にあった時から聖典を聴き老成の士を訪ね日々治道を講じられ、邢州・河南・陝西のような最も治まっていなかった地には安撫・経略・宣撫の三使司を置かれた。その法は人を選んで職に居らせ、俸を頒って廉を養い、汚濫を去って政を清め、農桑を勧めて民を富ませるというもので、三年に満たずして大治と称され、諸路の民は陛下の救いを赤子が母を求めるように望んでいる。先帝が崩御され国難が並び興る中、天が聖人を開き大統を纉承させ、歴代の遺制を用いて内に省部を立て外に監司を設けられた。中統から今まで五六年の間、外侮内叛が絶えぬ中でも、官吏は債負を離れ、民は賦役に安んじ、府庫はほぼ実り、倉廩はほぼ完備し、鈔法はほぼ行われ、国用はほぼ足り、官吏の遷転や政事の刷新が進んだのは、すべて陛下が祖宗の基を保ち先王の法を信用されたことによる。今、治道を創始するにあたっては、上は天心に答え、下は民心を結び、親族を睦ませて本を固め、儲副(皇太子)を建てて祚を重んじ、大臣を定めて国に当たらせ、経筵を開いて心を正し、辺備を修めて虞に備え、糧餉を蓄えて凶年に備え、学校を立てて才を育て、農桑を勧めて生を厚くすべきである。これは先烈を光らせ帝徳を成し子孫に遠く名誉を伝えることになる。陛下の才略をもってこれを行うには余りある。しかるに近頃聞くところでは、聴聞が日々煩雑になり、朝廷の政令が日々月々改まり変わり、木を植えたばかりでまた移し替えるように、屋根を架けたばかりでまた壊すようであり、遠近の臣民は戦慄に堪えない。大本が一度廃れれば遠業は成り難く、陛下の後の憂い、国家の重害となることを恐れる、と。帝は怒ったが、結局これを釈した。

晩年の献言と卒去

  • 至元十年(1273年)、昭文館大学士を拝命し礼儀の詳定に当たった。その年、襄陽が陥落し、宋を取ることが議されると、樞は「大将を求めるなら右丞相安圖でなければならず、樞密院の知事は巴延でなければならない」と奏した。
  • 至元十一年(1274年)、樞は言った。陛下は不殺の詔を降され、巴延が長江を渡ってからは時を経ずして、西は蜀川から東は海隅に至るまで、降伏した城戸は百万を超えた。古来平南でこれほど神速な例はない。しかし今、夏から秋にかけて一城も降らないのは、軍官が国の大計を思わず、陛下の深い仁を体さず、財貨を利し殺掠を行っているからである。揚州・焦山・淮安では人々が殊死の戦いをし、我らは勝ったものの損傷も多い。宋が国を保てないことは明らかであるが、臨安が容易に下らないのは、生を好み死を悪むのが人の常情で、恐れて降りかねているためである。ただ我らの招徠止殺の信が堅くないことを懼れているだけである。宜しく止殺の詔を重ねて申し、賞罰を必ず立て恩信を必ず行うべきである。そうすれば聖慮を労さず軍力も費やさずに済む、と。また宋の鞭背・黥面などの濫刑を禁じるよう請うた。
  • 至元十三年(1276年)、翰林学士承旨を拝命。至元十七年(1280年)に卒した。享年七十八。諡は文献。
  • 樞は生まれつき度量広く仁恕であり、恭敏で倹勤であった。人が自分を欺くのではと疑うことはなく、恩義に背かれても恨みを留めなかった。憂患が来ても言葉や表情に出さず、来れば必ず謀り、繰り返しこれを告げた。子の煒は平章政事となり、従子の燧は翰林学士承旨に至り、文章の大家として知られ、卒して諡を文とされた。