元史卷一百五十八 列傳第四十五 許衡
許衡、字は仲平。懐の河内の人で農家の出ながら独学で朱子学を修めた儒者。世祖に仕えて京兆提学・国子祭酒・中書左丞などを歴任し、「時務五事」の上疏や授時暦の編纂で知られる元初の代表的儒臣。門弟の教育にも尽力し、没後は孔子廟庭に従祀された。至元十八年、七十三歳で没した。
年表(12件)
- 㤗和九年1209年新鄭県に生まれる
- 甲寅年1254年世祖に召され京兆提学となる
- 中統元年1260年世祖に召され太子太保に任じられる
- 至元二年1265年中書省の議事に加わり「時務五事」を上疏する
- 至元四年1267年懐への帰郷を許される
- 至元六年1269年朝儀・官制の制定に携わる
- 至元七年1270年左丞に除される(阿哈瑪特との対立)
- 至元八年1271年集賢大学士兼国子祭酒となり蒙古弟子を教育する
- 至元十年1273年諸生の廩食が絶え、懐への帰郷を求めて許される
- 至元十五年1278年集賢大学士兼国子祭酒教領太史院事として新暦の編纂を主導する
- 至元十七年1280年授時暦が完成し天下に頒布される
- 至元十八年1281年病により卒す。享年七十三
出自と幼少期
- 許衡、字は仲平。懐の河内の人である。代々農を業とし、父の通は乱を避けて河南に至り、㤗和九年(1209年)九月、新鄭県で衡を生んだ。幼くして異質があり、七歳で学に入り章句を授かった際、その師に「読書は何のためか」と問うと、師は「科第を取るためだ」と答えた。衡は「そのようなことだけなのか」と言い、師はこれを大いに奇として、書を授けるたびに旨義を問うようになった。しばらくして師は衡の父母に「この子は聡明で並外れており、いずれ大いに人に過ぎる者になるだろう。私はその師にふさわしくない」と言って去ろうとしたが、父母が強いて止めても止まらなかった。このようにして師を三たび更えた。
- 成長するにつれ、飢渇のように学を嗜むようになったが、世は乱れ貧しく書もなかった。ある時、日者(占い師)の家で書物を見つけ、宿を借りて手ずから写して帰った。逃難の途上、岨崍山で初めて易の王輔嗣の説を得た。兵乱の中、衡は夜に思い昼に誦じ、身をもってこれを実践し、言動は必ず義に照らしてから発した。かつて暑中に河陽を過ぎ、渇きが甚だしく、道端に梨があり衆人が争って食べたが、衡は独り木の下に正座して動じなかった。人が問うと「自分のものでないものを取ってはならない」と答えた。人が「世が乱れて主がいないのだ」と言うと、「梨に主がなくとも、我が心に主がないだろうか」と答えた。
- 魯・魏に転じて過ごすうち、人々はその徳を見て次第に従うようになった。三年後、乱がほぼ定まると懐に戻り、河洛の間を往来し、栁城の姚樞から伊洛の程氏および新安の朱氏の書を得て大いに得るところがあった。しばらく蘇門に居り、樞および竇黙とともに講習し、経伝・子史・礼楽・名物・星暦・兵刑・食貨・水利の類、講じないものはなく、慨然として道を己の任とした。かつて人に語って「綱常は天下より一日も亡くしてはならない。もし上にある者がこれを任じなければ、下にある者の任である」と言った。喪祭・嫁娶は必ず礼に照らしてその郷人を導き、学ぶ者は次第に盛んになった。
- 家は貧しく自ら耕作し、粟が熟した時は粟を食べ、熟さない時は糠や粗末な菜を食べ、それでも泰然として謳誦の声が戸外に聞こえ、金石のようであった。財に余りがあればすぐに一族の者や貧しい門人に分け与え、人から贈り物があっても、道理に反するものは一毫たりとも受け取らなかった。姚樞がかつて召されて京師に入る際、雪齋の自宅を衡に守らせようとしたが、衡は拒んで受けなかった。熟れて地に落ちた果実があっても、童子はそれを見向きもせずに通り過ぎた。その家人の感化ぶりはこのようであった。
京兆提学と中統初年の出仕
- 甲寅(1254年)年、世祖が秦中に出て王となり、姚樞を勧農使として民に耕作を教えさせた。さらに秦人を教化しようと、衡を召して京兆提学とした。秦人は兵乱から脱したばかりで学ぶにも師がなく、衡が来ると聞いて人々は喜び、学ぶ者が来て郡県はみな学校を建て、民は大いに教化された。世祖が南征すると衡は懐に戻り、学ぶ者たちは引き留めたが従うことができず、臨潼まで見送って帰った。
- 中統元年(1260年)、世祖が皇帝位に即くと京師に召された。当時、王文統は利を言うことで進み平章政事となっており、衡・樞らが侍って治乱休戚は必ず義を本とすべきと言うので、文統はこれを憂えた。また竇黙が日々帝の前でその学術を排撃し、衡が文統と表裏をなしていると疑われたため、樞を太子太師、黙を太子太傅、衡を太子太保に奏し、名目上は尊用しつつ実際は帝の側に侍らせないようにしようとした。黙はしばしば文統を攻めても効かず、東宮を頼って禍を避けようとし、樞とともに拝命して謝しようとした際、衡は「これは義に安んじられない。しばらく論ずるのはやめよう。礼では師傅と太子の位は東西に向き合い、師傅が座れば太子は立つ。公らはこれをまた行えると思うか。行えないなら師道は我らから廃れることになる」と言った。そこで相談して制を懐に入れ、辞退を五度重ねてようやく免れた。樞は大司農に、黙は翰林侍講学士に改められ、衡は国子祭酒となったが、間もなく病を理由に辞して帰った。
- 至元二年(1265年)、帝は安圖を右丞相とし衡にこれを輔けさせようと、再び京師に召して中書省の議事に加わらせた。衡は上疏して言った。「臣は性識愚陋で学術は荒疎であり、思いがけず虚名が聖聴を煩わせております。陛下は賢を好み善を楽しみ、短を舎て長を取られます。私のような不才の者でも、甲寅の年から今まで十三年、八度も詔旨を賜り、どう報いようかと自ら念じてきました。また先日、面と向かって懇ろな徳音を賜り、中書の大務において私に存分に言わせてくださるとのこと。私は昏愚ではありますが、陛下のこれほど厚いご厚意を受けた以上、あえて所有する限りを尽くさぬわけにはいきません。孟子は君に難きを責めるのを恭と言い、善を陳べ邪を閉じるのを敬と言いました。孔子は道をもって君に事え、聞き入れられなければ止めよと言いました。臣が守るところの大意はこのようなものです。伏して願わくは陛下、私の不才を寛恕し、その至懐を察していただければ、区区たる愚見も或いは小補となりましょう」。
上疏「時務五事」
- 衡は五つの論点を上疏した。
- 第一は「国俗と漢法」。自古、国を立てる者には皆規模があり、これに循って行えば治功が期せる。そうでなければ心は疑い目は眩み、変易紛更しても効果は見えない。前代を考えるに、北方から中夏を有した者は必ず漢法を行ってこそ長久であり、後魏・遼・金は最も年を歴たが、そうでなかった国は皆乱亡した。国家は当然漢法を行うべきである。しかし万世の国俗、累朝の勲旧を一朝で駆り立てて臣僕の謀に従わせ亡国の俗に就かせるのは甚だ難しい。寒暑の変化のように、日を積み月を重ねてこそ変わるものであり、陛下がこれを尊信し堅く守り、小人に惑わされず近効を求めず流言を恤えなければ、いずれ治功は成るだろう。
- 第二は「用人と立法」。中書の務めは煩雑だが、要は用人と立法の二つに尽きる。人の賢否は詳しく知らねば軽々しく用いてはならないが、既に君子と小人を知りながら得失を患い進退を決しないのでは、知人しても用人しないに等しく益がない。古人は「高きを為すには丘陵に因り、下きを為すには川沢に因り、政を為すには先王の道に因る」と言った。功ある者には俸禄を給して廉を養わせ、未仕の者には条格を寛く立てて叙用させれば、失職の怨みは少なくなる。外に監司を設けて汚濫を察し、内に吏部を専らにして資歴を定めれば、非分の求めは次第に息む。冄任三任、抑高挙下すれば人材爵位はほぼ平らかになる。貴家の世襲、品官の任子、版籍の数も緩やかにはできない。
- 第三は「君主の難しさ」。民生には欲があり主がなければ乱れる。上天が命を眷み君師を作ったのは、これが至難の任だからである。堯舜以来の聖帝明王は皆兢兢業業として小心畏慎であった。人君は言葉より践言の難しさを患うべきである。劉安世は一つの不妄語を七年かけて成し遂げたが、これは一士人の話である。天下の広さ、兆民の多さ、日々の万機を思えば、なおさら至難である。至難の地を安易に処すれば、天下の人が疑惑驚眩し、無法無信と議されることになる。大学の道に従い脩身を本とし、愛憎喜怒に流されず虚心端意して熟慮すれば、外れることは少ない。しかし人の上に立つ者は多くが安逸を楽しみ、臣たる者は多くが媚びへつらう。人君の踐言の難しさは、人の情の複雑さゆえに天下で最も難しい。人の情には見えやすいものと見えにくいものがあり、上にある者は下を知りにくく、下にある者は上を知りやすい。包拯のような剛厳峭直な人物でさえ一小吏に欺かれた。人君が億兆の上に立ち生殺与奪の権を握り、もし欺かれれば非を是とし是を非とする害は計り知れない。人君は無喜怒・無愛憎であるべきで、そうでなければ側近が喜怒愛憎を利用し私を済す。人君は知人を貴び用人を急ぐべきで、そうでなければ争進の人、好利の人、無恥の人が近づき、堯舜でも防げない。賢者は公と愛を心とし利や勢に屈しないが、遭う時によっては自ら韜晦し、人君が知っても軽々に招けば賢者は応じず、用いても小人に妨げられれば賢者の実は失われる。奸邪の人は険で巧みであり、謟いは恭に似、欺きは信に似、佞は近しさに似る。人君の喜怒を窺い迎合し、その勢いを窃み威を立て、愛憎を利用して権勢を固める。宇文士及の佞を太宗は見抜きながら斥けられず、李林甫の妬賢嫉能を明皇は知りながら退けられなかった例がある。上が誠をもって下を愛せば下は忠をもって報いるのが理であるが、禹・啓が民を愛したのに太康が失徳して万姓が去った例、漢高帝が寛仁で天下を得ながら定まった後は愛憎で誅賞を行い不平を招いた例がある。人君は言葉を発した後、実がそれに副わなければ怨みが生じる。特に有功の者を薄く扱い有罪の者を厚く扱えば、人は怒りを覚えずにいられない。大学の道に従い脩身を本とし、一言一動を天下の法とし、一賞一罰を天下の公とすれば、億兆の心は求めずして得られる。漢の文帝・景帝の代は天象が数変し山崩地震が絶えなかったが、養民を務めとしたため民心を得た。近年、彗星が相次いで現れ、除旧布新すべきとの議もあるが、文景の恭儉愛民に法るのが理に適う。天は下民のために君を樹てたのであり、民が重く君が軽い。天の道は常に下にあり、常に不足にある。君主が下を求めず高きを求め、不足を求めず余りを求めれば、それが天変を招く所以である。
- 第四は「堯舜の道」。古の聖君は必ず堯舜と言われ、古の賢相は必ず稷契と言われる。堯舜は天道を知りこれに順い、稷契は堯舜の心を知りこれを輔賛した。天道は生を好み私せず、堯舜も生を好み私せなかった。俊徳を明らかにし黎民を変じ、人時を授け庶績を咸熙させたのは天道に順う実であり、稷が百穀を播いて民生を厚くし、契が五教を敷いて民心を善くしたのは堯舜を輔賛する実である。古今の道理は往古の聖賢の言と一致し、歴代の治乱の跡と符合する。この道が行われれば民は富み、兵は強く、人材は盛んになり、国勢は重くなる。今、国家はもっぱら財を歛める巧みさを知るのみで財を生む由を知らず、人を防ぐ欺きばかりを患えて人の善を養おうとしない。誠に農民を優遇し、遊惰の民を田畝に帰し十年後には倉府の蓄えは大いに増すだろう。都邑から州県に至るまで学校を設け、皇子から庶人の子弟まで学ばせ、十年後には上下が和睦するだろう。これは堯舜の道であり、孟子が「私は堯舜の道でなければ王に陳べない」と言ったように、臣もこれを学びたいと願う。
- 第五は「民志の安定」。天下が定まるのは民志が定まるからである。士は士に、農は農に、工商は工商に安んじてこそ、上にある者はこれを安んじられる。民が卑賎な身分に安んじられなければ必ず禄仕を求め、卑位に安んじられなければ必ず尊栄を求める。四方万里から人が輻輳して進めば、無厭無恥の心を君は寒心せずにいられない。天下を取る者は勇敢を尚び、天下を守る者は退譲を崇ぶ。取ると守るとはそれぞれ道理があり、審らかにしてから発すべきである。人君が喜怒の色を顔に見せ言葉に出せば、人はみなそれを知り、後に喜怒の対象がふさわしくないと知れば必ず後悔する。周の幽王は無道であったのでこれを恤えなかったが、今それがないのに、どうして人を不信にさせてよかろうか、と。書は帝に奏上され、帝は嘉納した。
- 衡は帝に多く奏陳したが、退出後には必ずその草稿を削ったため、その言葉は多くが秘され、世に伝わったのはこの五事のみであった。
中書政治における立場
- 衡は病が多く、帝は五日に一度参内することを許し、時に名薬・美酒を賜って調養させた。至元四年(1267年)に懐への帰郷を許した。五年(1268年)に再び召されて奏対したが、これも秘された。六年(1269年)、太常卿徐世隆とともに朝儀を定め、儀が成ると帝は臨んで観覧し大いに喜んだ。また太保劉秉忠・左丞張文謙とともに官制を定め、衡は古今の分併統属の序を歴考し、権攝や冗長・倒置を除いて省部院臺・郡県と后妃儲藩・百司の統制を図に整理し、七年(1270年)にこれを上奏した。翌日、公卿を集めて中書と院・臺の行移の体を議した際、衡は「中書は天子を佐けて国政を総べる。院・臺は具呈すべきである」と述べた。時に商挺は枢密に、髙鳴は臺にあり、皆快く思わず、咨稟の体にしようと大言して衡を動揺させたが、衡は「私は国制を論じているだけで、人事とは関係ない」と述べ、その言葉を帝に確かめ、帝は「衡の言は正しい。私の考えも同じである」と述べた。
- まもなく阿哈瑪特が中書平章政事となり尚書省六部の事を領し、権勢を擅にして朝野を圧倒し、大臣の多くがこれに阿った。衡は彼と議論するたびに必ず正言して少しも譲らなかった。まもなくその子にも僉樞密院事の命が下ると、衡は独り「国家の事権は兵・民・財の三つに過ぎない。今その父が民と財を典り、子がまた兵を典るのは不可である」と主張した。帝が「そなたは彼が反すると疑うのか」と問うと、衡は「反しなくとも、これは反道である」と答えた。阿哈瑪特はこれにより衡を疎み、しばしば衡を薦めて中書に置き、それを口実に陥れようとし、まもなく左丞に除された。衡は再三辞退したが、帝は左右に衡を促させて出仕させた。衡は退出して閾を出てから戻り、「陛下は臣に出よと命じられましたが、省を出よとの意味でしょうか」と奏すると、帝は笑って「殿門を出よというだけだ」と答えた。
- 上京への行幸に従った際、阿哈瑪特が専権し帝を欺いて政を害している数件を論列したが取り上げられなかったため、病を理由に機務を辞することを求めた。帝は憐れんでその子師可を召し入れ諭旨し、また自らに代わる者を挙げるよう命じた。衡は「人を用いるのは天子の大柄である。臣下が汎くその賢否を論じるのはよいが、位を授けるとなれば天子自ら断ずべきであり、臣下に恩を売る隙を与えてはならない」と奏した。帝は久しく太学を開こうとしていたが、衡が罷めるよう強く求めたため、その請いに従った。
- 至元八年(1271年)、集賢大学士兼国子祭酒となり、自ら蒙古弟子を選んで教えた。衡は命を聞いて喜び、「これは私の事業だ。国人の子弟はまだ淳朴な素朴さを失っておらず、見聞が専一であるから、これを善き者の中に置いて数年育てれば必ず国用となる」と言い、その弟子である王梓・劉季偉・韓思永・耶律有尚・呂端善・姚燧・髙凝・白棟・蘇郁・姚燉・孫安・劉安中の十二人を伴読として徴し、駅を通じて京師に召し、各斎の斎長とした。当時選ばれた弟子は皆幼稚であったが、衡は成人のように待し、子のように愛し、出入進退はその厳しさが君臣のようであった。その教え方は覚を因って善を明らかにし、明を因って蔽を開き、その動静を相じて張弛とし、課誦の少しの暇には礼を習わせ、あるいは書算を習わせ、幼い者には拝跪揖譲・進退応対を習わせ、あるいは射や投壺を行わせ、負けた者は書を若干篇読ませて罰とした。時が経つと諸生は皆それぞれに自得し、師を尊び業を敬い、幼い童子でも三綱五常が人の道であることを知るようになった。
- 至元十年(1273年)、権臣がしばしば漢法を毀ろうとし、諸生の廩食が続かなくなったため、衡は懐への帰郷を請うた。帝が翰林学士王磐に問うと、磐は「衡は人を教えるのに法があり、諸生は行いにおいて政に就くことができます。これは国の大体であり、去らせるべきではありません」と答えた。帝は諸老臣に去留を議させ、竇黙が衡のために懇ろに請うたため、衡の帰郷が許された。賛善王恂に学事を摂させ、劉秉忠らは衡の弟子である耶律有尚・蘇郁・白棟を助教に挙げて衡の規矩を守らせることを奏し、聴き入れられた。
- 国家は中原を得て以来金の大明暦を用いていたが、大定の是正から六七十年が過ぎ、気朔や加時の誤差が次第に大きくなっていた。帝は天下が統一されたのを機に、時を協せ日を正すことを望み、至元十五年(1278年)、王恂に新暦の制定を詔した。恂は「暦家は暦数を知っていても暦理を知らないので、衡に領させるべきである」と考え、衡は集賢大学士兼国子祭酒教領太史院事として京師に召された。衡は冬至こそ暦の本であり、暦本を求めるには気を験するにあると考え、宋の旧儀は汴から京師に運ばれて既に狂いが生じており、加えて年久しく規環も合わなくなっていたため、太史令郭守敬らと新たに儀象・圭表を製した。丙子(1276年)年の冬から日の晷影を測り、丁丑・戊寅・己夘(1277-79年)の三年間の冬至の加時が大明暦より十九刻二十分減ることを得た。また古の歳余・歳差法を増減し、上って春秋以来の冬至を考証してすべて合わせ、月食衝および金木二星の距離で冬至の日躔を検証して旧暦より七十六分退けた。日転の遅疾の中平行度で月離の宿度を検証し、旧暦より三十刻増した。線を管闚の代わりに用いて赤道の宿度を測り、四正で定気を立てて損益限とし日の盈縮を定め、二十八限を三百三十六に分けて月の遅疾を定め、赤道を九道に変えて月行を定め、遅疾転で定度分を定め、朔を定めるのに平行度を用いず日月実合の時刻で定め、晦を定めるのに虚進法を用いず躔離朓朒で交食を定めた。その法は古のものより悉く密であり、諸暦の積年日月の付会を悉く去り、天道自然の数一本によって永久に施行できるようにした。その他の正訛完闕も一事にとどまらなかった。至元十七年(1280年)、暦が完成して上奏され、授時暦と名付けられ天下に頒布された。
- 六月、病により懐への帰郷を求めた。皇太子が帝にとりなし、その子師可を懐孟路総管として奉養させ、また東宮の官に諭させて「公は道が行われないことを憂えるな。公が安ければ道は時を得て行われる。薬をよく用いて自愛せよ」と伝えさせた。
- 至元十八年(1281年)、衡の病が篤くなり、家人が祠りを行おうとすると、衡は「私はまだ一日も死んでいないのに、どうして祖考への事を怠れようか」と言って、扶けられて起き上がり奠献を儀の通りに行い、撤した後は家人と食事をとり和やかであった。やがて卒した。享年七十三。この日、大雷電が起こり風が木を抜いた。懐の人々は貴賤老幼を問わず皆門で哭き、四方の学士は訃報を聞いて集まり哭き、数千里から来て墓前で祭る者もあった。
- 衡は人を教えるのが巧みで、その言葉は温かく、童子と語る時も傷つけることを恐れるようであった。至る所で貴賤賢不肖を問わず皆喜んで従い、その才の昏明大小に応じて得るところがあり世に用いられた。去るとき人々は皆泣いて忍びず、その教えを金科玉条のように念じて終身忘れなかった。門下でなくとも、その余流を伝え聞いて節を折り力行して名を成した者は往々にしてあり、その言葉を聞けば武人俗士や異端の徒でも感悟しない者はなかった。丞相安圖は衡に一度会って同列に「そなたたちは互いに大差ないと思っているが、この人は千万に値する」と語り、翰林承旨王磐は一世に気概を並べる者が少ない人物だったが、衡だけを見て「先生は神明である」と述べた。
- 大徳二年(1298年)、栄禄大夫司徒を贈られ、諡は文正。至大二年(1309年)、正学垂憲佐運功臣・太傅開府儀同三司の号を加えられ、魏国公に封じられた。皇慶二年(1313年)、孔子廟庭に従祀するよう詔された。延祐初年(1314年頃)、京兆に書院を立て衡を祀ることが詔され、田を給して祠事を奉じさせ、魯齋書院と名付けられた(魯は衡が魏にいた時の斎名である)。子の師可。