元史卷一百五十三 列傳第四十 楊奐

出自と金末の学問

  • 楊奐、字は煥然、乾州奉天の人。母がかつて東南から日光が身に射す夢を見、かたわらに神人がいて筆を授けたのち奐が生まれ、その父は文明の兆しと考えて奐と名付けた。年十一で母を亡くし、哀しみ痩せることは成人と同じであった。金末に進士に挙がったが及第せず、万言の策を作って時弊を指摘し、人が敢えて言わぬことを述べたが、上奏する前に帰郷して郷里で教授した。

河南税課使としての善政

  • 歳癸巳年、金元帥崔立が汴京を挙げて降ると、奐は微服して北渡し、冠氏の帥趙寿之に招かれ師友の礼で待遇された。門人の中には京師から書を運んできた者もいて、それを集めて読むことができた。東平の厳実が奐の名を聞き、幾度もその行方を尋ねたが、奐は一度も出向かなかった。
  • 戊戌年、太宗の詔で宣徳税課使劉用之が諸道の進士を試験した際、奐は東平で受験して賦・論とも第一を得、監試官に従って北上し中書の耶律楚材に謁見した。楚材はこれを奏薦し、河南路徴収課税所長官兼廉訪使を授けられた。
  • 奐は赴任にあたり楚材に「私は不才、身に余る任用を賜りましたが、書生の身で財賦を治めることはもともと得意ではありません。しかも河南は兵荒の後で遺民わずかであり、烹鮮の喩えはまさに今日にあります。急いで擾すれば必ず糜爛するでしょう。願わくは歳月を貸していただき、傷を撫でることができれば、朝廷の愛養する基本の万一の助けとなりましょう」と言い、楚材は大いに善しとした。
  • 奐は着任すると一時の名士を招いて政事を議論し、簡易を旨として境内を巡行し、監務の月課がどれほどか難易はどうかを直接尋ねた。増額を進言する者があると、奐は「下を剥ぎ上を欺くことを私にさせようというのか」と叱責し、逆に元の額の四分の一を減らし、公私ともに便利になり、一月経たぬうちに政績があがり、世論はこぞって「以前の漕司にはこのようなことはなかった」と称えた。

晩年と著作

  • 官にあること十年、燕の行台に隠退を願い出た。壬子年、世祖が潜邸にあった頃、駅使を出して奐を京兆宣撫司参議とし、たびたび上書して隠退の許しを得た。乙夘年、病が重くなり、日頃通りに後事を処置し、盃を傾けて大笑いして卒した。年七十。諡は文憲を賜った。
  • 奐は博覧強記であり、文を作るに陳言を去るよう努め、古人を踏襲することを恥とした。朝廷の諸老は皆世代を超えてこれと交わり、関中には多くの士がいたが、その名は奐に及ぶ者がなかった。奐は生業を治めず、家に十金の財産もなかったが、人の急を助けることを喜び、力が及ばずとも努めてこれをなした。人に一つでも善があれば懇ろに称賛し、その名が知られないことを恐れ、あるいは小さな過失があれば必ず言を尽くして諫止し、その怨みや怒りを気にすることがなかった。著書に『還山集』六十巻、『天興近鑑』三巻、『正統書』六十巻があり、世に行われた。