元史卷一百五十三 列傳第四十 賈居貞

字は仲明、真定獲鹿の人。太宗朝から廉潔で知られ、世祖の信任を得て中書左右司郎中・参議中書省事等を歴任した実務官僚。至元十一年(1274年)の宋討伐では宣撫使として従軍し、江陵・鄂州の民政再建や江西・湖北の反乱鎮撫に功を挙げたが、日本再征の困窮を訴えた直後、至元十七年(1280年)に病没した(享年六十三)。

年表(8件)

出自と清廉

  • 賈居貞、字は仲明、真定獲鹿の人。年十五で汴京が破れ、母を奉じて天平に居し、成人したばかりで行台従事となった。当時法制はまだ立てられておらず、人は賄賂によって交わりを結んでいたが、黄金五十両を贈る者がいても居貞はこれを退けた。太宗はこれを聞いて嘉嘆し、有司に月に白金百両を給しその廉潔を旌するよう勅した。世祖は潜邸にあってその賢を知り召し用い、上都城の築造監督にあたらせたが、母の喪に服すために帰った。
  • 世祖即位後、中統元年、中書左右司郎中を授けられ、帝の北征に従い、常に『資治通鑑』を陳説し、軍中にあっても書を廃することがなかった。ある日帝が郎の俸禄はいくらかと問うと、居貞は数を答えたが、帝はこれを薄いと考え増給を勅した。居貞は「品秩に定めがある以上、臣によって制度を乱すべきではありません」と辞退した。劉秉忠が居貞を参知政事に推挙したが、また「後日必ず郎官がこの前例を援いて執政を求める者が出るでしょう、それをどう処置するのですか」と辞退し、拝さなかった。
  • 至元元年、参議中書省事となり、詔で左丞姚枢とともに河東山西を行省し、巡回役所を廃して定守を置いた。五年、再び中書郎中となったが、阿哈瑪特が権を専らにしてこれを忌み、給事中に改め丞相史天沢らとともに国史の纂修にあたらせた。

地方官としての実務

  • 十一年、丞相巴延の宋討伐に際し、居貞は宣撫使として行省事を議し、渡江して鄂・漢を下すと巴延は大軍で東下し、左丞阿爾哈雅を留めて居貞とともに分省として鎮させた。居貞は「江陵は要地であり、宋の制閫重兵の屯所です。諸将が不和と聞いており、遷徙してきた民は城に満ち、疫病が蔓延し薪も乏しい、門を閉じて樵採もできぬ状況では隙に乗じて先に取ることもできません。春に水が増せば上流を彼に乗じられ鄂が危うくなるでしょう」と駅で報告した。十二年春、阿爾哈雅に江陵を攻めさせる一方、居貞は僉行省事として鄂に留まり、倉廩を開いて流亡の民を賑い、宋の宗室の子孫で流寓する者には廩食を給し衣服を変えさせず楮幣を通用させ、東南でまだ下されていない州郡の商旅で滞留する者には引を給して帰らせ、商税や湖荻の禁を免除し、船を百数十艘造り水軍を配して民を煩わさなかったため一帯は安定した。

鎮撫と江西治政

  • 婁安邦が信陽をもって帰順し入朝させたが、副将陳思聰がその一家を虐殺したため、居貞は計をもって呼び出し、思聰の罪を数えて誅した。宋の幼主が降ると、その相陳宜中らは二王を挟んで閩広に逃げ、各地で民を扇動して呼応させたため、蘄州で盗賊が起こり、司空山属県の民傅髙もこれに呼応して挙兵したが、居貞は檄を発して禍福を諭すと、その下は次第に離散し官軍で圧すると平定した。髙は姓名を変えて逃走したが捕らえて処刑した。
  • 初め鄭万戸を派遣して賊を討たせた際、鄭は「鄂の大姓は皆傅髙と通じている、まず除いて禍根を絶つべきだ」と言ったが、居貞は「髙は鼠子で無知に過ぎず、まもなく処刑される。大姓に何の関わりがあろうか、私はその大姓が他心を持たぬことを保証できる」と答えた。鄭は兵を率いて出た後、腹心の部将に「私が兵を戻すと聞いたら烽火を挙げよ、城楼で内外呼応させ城中の大姓を尽く殺す」と密かに命じたが、たまたまその者が戦に敗れて溺死し、この陰謀が明るみに出た。
  • 十四年、湖北宣慰使を拝したが、命が下される前、居貞は門を閉じて出なかった。驕将悍卒が徒党を組んで民を擾していたため、再び出て視事すると人々は安心し、赴任すると鄂の老幼が道に号泣して見送り、その像を石に刻んで泮宮に祀った。
  • 十五年、江西行省参知政事に遷り、赴任前から民が千里を争って迎え訴えた。当時、宋の二王の文帖を受けた民を急いで逮捕しており、巨室三百余が捕らわれていたが、居貞が到着すると悉くこれを釈放し、文帖を水火に投じた。士卒が武器を持って民家に押し入り、蔵匿していると誣告して財を奪い、あるいは子女を奴妾に取る者がいれば、皆法をもって厳しく罰した。大水で民家が破壊されると倉廩を開いてこれを賑した。
  • 南安の李梓発が乱を起こした際、居貞は将帥が出兵すれば民を擾すと考え自ら赴くことを願い出、わずか千人の兵で城北に営を張り人を遣わして諭すと、賊衆は居貞が来たと聞いてことごとく散り隠れ、梓発は妻子を一室に閉じ込め自ら焚死した。帰るまで一人も殺さなかった。
  • 杜万一が都昌で乱を起こした際、居貞は兵を調えて捕らえたが、賊と通じているとして百数の巨室の名が列挙された文書が届いた際、居貞は「元凶はすでに誅せられた、それ以上蔓延させて何になろうか」と言い、その牒を火にくべ、民心はますます安定した。

晩年

  • 十七年、朝廷が再び日本征討を計画し江南で戦艦を造らせた際、居貞は民の困窮ぶりを訴えこのままでは必ず乱を招くと極言し、入朝してこの事を奏罷しようとしたが、実行前に病により在職のまま卒した。年六十三。推忠輔義功臣・銀青栄禄大夫・中書平章政事を贈られ、定国公に追封された。仲子は鈞。

賈鈞――略歴

  • 鈞、字は元播、幼少より読書し、物静かで度量があった。榷茶提挙から監察御史に拝し、淮東廉訪司事・行台都事を僉し、刑部郎中に入り右司郎中に改め、参議中書省事となった。仁宗即位後、参知政事を拝し、尚書省が立てた法の廃止を議し、僉書枢密院に遷り、再び参知政事となり、錦衣・宝帯を賜り寵愛は厚かった。政をなすにあたって大局を保ち、風儀を厳しく整え、瑣末な名誉を求めなかった。皇慶元年、上都に扈従し病にかかって家で卒した。前後にわたり詔で鈔三万貫を賻贈して葬事にあてた。子の汝立が跡を嗣いだ。