出自と厳実府での活躍
- 王玉汝、字は君璋、鄆の人。若くして吏事を習い、金末に流民が南渡した際、玉汝は父母に付き従い間道を経て帰り、行台厳実が鄆に拠ると玉汝を掾史とし、まもなく行台令史に補せられた。中書令耶律楚材が東平を通過した際、その才を認めて東平路奏差官に版授し、事あって京師に至ると楚材の門に遊び、家人父子の如くもてなされた。
- 厳実は年老いて従軍が難しくなったため、玉汝は本府総管をもって代えるよう奏請した。夏津で災害があった際は、その民に一年間の免税を奏請した。済州の長官は本州を朝廷直隷にしようと望み、大名の長官は冠氏等十七城を大名に改隷させようとしたが、玉汝はいずれもこれを正した。
厳氏の地の護持
- 戊戌年、東平の地は諸勲貴に分封され、裂かれて十に分かたれ、各々その民を私有し、有司とはかかわりを持たなくなった。玉汝は「もしこのようであれば厳公の事業は残るものが幾らもない」と言い、夜中楚材の帳の後ろで泣いた。翌日楚材がその理由を問うと、玉汝は「玉汝は厳公の使者でありながら、今厳公の地は分裂して救うことができず、面目なく戻って報告するにしのびず、この荒寒の野で死のうとしていました、それゆえ泣いていたのです」と答えた。楚材はこれを憐れみ、しばらくして玉汝を帝の前に赴かせ訴えさせた。
- 玉汝は進言して「厳実は三十万戸を率いて朝廷に帰属し、崎嶇たる兵間を経て三度も家室を捨てましたが、ついに異心を抱きませんでした。他の降者と同列に扱うべきではありません。今その土地を裂き民を析するのは、功に旌賞する所以ではありません」と述べた。帝は玉汝の忠孝を嘉し、その言を正直と認め、これによって分裂を免れた。
- 行台知事に遷り、遥かに平陰令を領した。辛丑年、厳実の子忠済が職を襲うと左右司郎中を授かり、ついに行台の政務を総轄した。分封された諸家は厳氏がその事務を総握することを不便に感じていた。定宗が即位すると、諸家は皆闕下に集まり、再び東平の地を剖分しようとした。この時衆心は疑心暗鬼となり首を垂れて命を聞こうとしたが、玉汝は諸説を排し、事は止んだ。
- 憲宗が即位すると、常賦の外に毎年銀六両を出させる旨があり、これを包垜銀と呼んだ。玉汝は「民力はもう支えられない」と言い、諸路の管民官を糾合して闕下に訴え、三分の一の減免を得た。累官して龍虎衛上将軍・定泰軍節度使兼兖州管内観察使・行台参議に至った。
晩年
- 壬子年、病により事を謝し、門を閉じて日々経史をもって自らを楽しんだ。乙夘年、忠済が人を遣わして「君は久しく閑居しておられる、しばし出て私の憂いを分けてくれ」と言うと、玉汝は堅く辞退したが、参議の印を無理に委ねられ、やむを得ず出仕した。わずか五、六日で裁量措置は一新した。八月既望、庭中に星が隕ちて間もなく玉汝は卒した。