元史卷一百五十三 列傳第四十 髙宣

従軍と鷹坊都総管

  • 髙宣、遼陽の人。太宗元年、詔で元帥に任ぜられ金符を賜り、睿宗に従って大名を攻めた際、「今、罪を伐ち民を弔うために出師している以上、みだりに殺戮を好まぬことで聖旨に応えたい」と進言した。睿宗は元帥綽諾を召し諭し、宣の言うとおり軍中に令を下すと、城が破れても兵は刃に血ぬらすことなく民心は悦服した。
  • 四年正月、三峰山で金軍を破ると、降者三千余戸を籍に記して献上し、打捕鷹坊都総管府を立ててこれを統べさせ、宣を都総管とし金符を賜り、子孫にその職を世襲させるよう命じて卒した。皇慶二年、宣力功臣・銀青栄禄大夫・大司徒を贈られ、営国公に追封、諡は簡僖。

髙天錫の代

  • 子の天錫は世祖の潜邸に仕えて筆且斉となり宿衛に入り、深く親幸を得た。中統二年、父の官職を授かり鷹坊都総管となり、四年に燕京諸路鄂囉総管に改め、按察副使に遷り鷹坊都総管を兼ねた。天錫は丞相博囉・左丞張文謙に「農桑は衣食の本、本を務めなければ民の衣食は足らず、教化も興らない、古の王政はこれより先んずるものはありません、留意されるべきです」と語り、丞相がこれを奏聞すると帝は喜び、司農司を立てて天錫を中都山北道巡行勧農使兼司農丞とした。まもなく司農少卿巡行勧農使に遷り、さらに戸部侍郎に遷り、嘉議大夫・兵部尚書に進んで卒した。後に推忠保義功臣・太保・儀同三司・上柱国を贈られ、営国公に追封、諡は荘懿。

髙諒の代

  • 子の諒は、裕宗が燕王に封じられた初め、符宝郎に任ぜられ、まもなく父の官職を襲って鷹坊都総管となった。裕宗は深くこれを愛し、符宝郎董文忠に「汝は私のために奏請し、諒が管する民戸を私に隷属させよ、そうすれば諒はきっと私のために尽力する」と語り、文忠が入奏すると帝はこれに従った。まもなく諒に嘉議大夫を授け兵部尚書に遷し、卒した。仁宗時、推誠保徳賛治功臣・太師・開府儀同三司・上柱国を贈られ、営国公に追封、諡は宣靖。

髙塔斯布哈の代

  • 子の塔斯布哈は成宗の命でその祖父の官職を世襲することとなったが、喪に服していたため辞退した。大徳元年、奉議大夫・章佩監丞を授かり、四年朝列大夫・利用監丞に改め、八年に少監に陞る。武宗即位後、中議大夫・秘書監丞を授かる。仁宗が東宮にあったとき召されて宿衛に入り、至大三年冬、少中大夫・納綿府達嚕噶斉に遷り、「これは先祖代々守ってきた旧職である」と諭された。
  • 皇慶元年春、嘉議大夫・同知崇祥院事に改授され、冬に資徳大夫に進み院使となった。延祐四年夏四月、帝は塔斯布哈に「汝の祖はかつて司農であった、今再びその職を汝に授ける」と言い、榮禄大夫・大司農に遷した。英宗が東宮にあったとき、塔斯布哈は前代の嘉言善行を撰集して『承華事略』と名付け、あわせて『豳風図』を描いて進献した。帝はこれを見て「汝が太子を正しく輔けてくれたこと、朕は深く嘉する」と奨め諭し、図書を東宮に置いて太子に常に閲覧させるよう命じた。六年、集禧院使に改め退職して家に隠居し、卒した。